「源政綱」の版間の差分

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[[治承]]2年([[1178年]])10月の[[春日祭]]に五位の共人の一人として随行しており、この時「[[散位]]」で「前[[相模国|相模]]権守、皇嘉門院[[殿上人]]」であった(『[[玉葉]]』同年10月29日条)。同4年([[1180年]])4月の[[除目]]で左馬権助に任ぜられる(『[[吉記]]』同年4月1日条)。同年5月に源頼政が[[以仁王]]を奉じ反[[平家]]の兵を挙げたが、政綱と兄の宗頼はこれに加わらなかったとある(『玉葉』同年5月22日条<ref>同条に政綱、宗頼を含め「頼政入道引率子息等」と記されることから頼政の養子となっていたと考えられる。</ref>)。
 
== 系譜 ==
*父:[[源頼行]](?-1157)
*母:不詳
*養父:[[源頼政]](1104-1180)
*妻:不詳
**男子:源長政
 
== 脚注 ==