「ローマ劫掠」の版間の差分

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この頃、イタリアを巡っては[[ヴァロワ朝]]の[[フランス王国]]と[[神聖ローマ帝国]]による衝突が繰り返されてきた([[イタリア戦争]])。[[1515年]]にはフランス王[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]の軍が[[ミラノ]]に侵攻し、[[1521年]]に[[ミラノ公国]]を支配する[[スフォルツァ家]]を追放するが、神聖ローマ皇帝カール5世は[[教皇]][[レオ10世 (ローマ教皇)|レオ10世]]と結んでミラノを攻めたので、フランス軍はミラノから退去している。しかし教皇[[クレメンス7世 (ローマ教皇)|クレメンス7世]](レオ10世の従弟)はフランス王と皇帝のどちらに就くか揺れており、[[フランス]]と結んだ事が、ローマ略奪のきっかけになる。
 
[[1526年]]、[[パヴィアの戦い]]に敗れカール5世の捕虜になっていたフランソワ1世が釈放されると、カール5世に対抗する[[コニャック同盟戦争|コニャック同盟]]を結成した。教皇もこれに加わり、皇帝と同盟していた[[フェラーラ]]公[[アルフォンソ1世・デステ]]を[[破門]]し、ローマに幽閉した。これに対し、カール5世はローマへ軍勢を差し向け、スペイン兵、イタリア兵などからなる皇帝軍と[[ドイツ]]の[[傭兵]]([[ランツクネヒト|傭兵]]がローマに進軍した。ドイツ兵には[[カトリック教会|カトリック]]を憎む[[ルーテル教会|ルター派]]が多かったという。また長期の行軍に給料の支払いも悪く、飢えた兵も多かった。
 
[[1527年]][[5月6日]]、ローマで皇帝軍と教皇軍の衝突が始まるが、クレメンス7世は[[サンタンジェロ城]]に逃げ込み、教皇軍は敗北した。この時、皇帝軍の指揮官であった[[ブルボン公]][[シャルル3世 (ブルボン公)|シャルル3世]]が戦死したが、指揮官を失ったにもかかわらず、配下の兵たちの士気はむしろ高まった。そして統制を失った軍勢はローマで破壊と略奪の限りを尽くした。<!--スペイン兵が最も狂暴だったとも言われるが、略奪の原因は統制を欠く混成軍団が長期の行軍後に暴走したことによるものである。-->市民らはなすすべもなく、6月に教皇は降伏した。皇帝軍がローマを撤退したのは翌年であった。