「ウィリー・ブルメスター」の版間の差分

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作曲者本人に招かれて、[[サンクトペテルブルク]]で[[ピョートル・チャイコフスキー|チャイコフスキー]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (チャイコフスキー)|協奏曲]]のソリストを務めたことがある。後にチャイコフスキーのいくつかの作品をヴァイオリン独奏用に編曲した。ほかにも、[[バッハ]]のいわゆる≪G線上のアリア≫や、[[クリスティアン・シンディング]]などの北欧の作曲家の作品を、アンコール・ピースとして編曲している。
 
[[1895年]]まで[[ヘルシンキ・フィルハーモニー管弦楽団]]で[[コンサートマスター]]をつとめ、フィンランドの楽譜出版商コンラッド・ファーゼル Konrad Fazer の姉妹でピアニストのナエマ Naëma と結婚した。[[ジャン・シベリウス|シベリウス]]とも面識があり、その[[ヴァイオリン協奏曲 (シベリウス)|ヴァイオリン協奏曲]]の初期稿に助言を与えた。シベリウスはブルメスターに、チャイコフスキーにも匹敵する作品になると激励され、当初はこの作品をブルメスターに献呈するつもりだったというが、ブルメスターは初稿ならびに改訂稿のそれぞれの初演にスケジュールを合わせることに失敗し、みすみす歴史的名作の被献呈者となる機会を逃してしまう。この間ブルメスターは、初稿を再演する権利を獲得しようと作曲者に打診するもかなえられず、最終的には一度もシベリウスの協奏曲を演奏しなかったという。
 
ブルメスターは、[[ハンス・フォン・ビューロー]]にも認められたほど高度な腕前の演奏家であり、あらゆる楽派の作品を十分に演奏できるだけの幅広い趣味をそなえていた。おはこは[[パガニーニ]]の作品だったが、しかしながら古典的な作品の演奏はやや冷淡で、情感に欠けていたと伝えられる。ヨーロッパ大陸では非常に高い評価を受けていたが、イギリスやアメリカで初めて演奏した際は、聴衆を感動させることができなかった。それでも左手のピチカートや、重音奏法による急速なパッセージのように、驚異的な超絶技巧で聴衆をひき込むことができた。ブルメスターの演奏はピッチがあやふやで、それがいくらか成功の妨げになったようだ。後年になってこのような欠点はかなり改善され、高年のブルメスターの演奏に接した者は、掛け値なしの美点に大いに感銘を受けている。ブルメスターは音楽活動において、心なしか足枷を感じており、親指の付け根を痛めたために、かなりの苦痛を感じていたようだ。