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英語帝国主義、消滅危機言語、ソウェト蜂起の歴史について
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==歴史==
{{main|ベンガル語国語化運動}}
宗主国[[イギリス]]がインドを去る[[1947年]]、かつての植民地は[[宗教]]を基に[[インド]]と[[パキスタン]]に分けられた。[[イスラム教]]を基に成立したパキスタンは、西パキスタンと東パキスタン(現[[バングラデシュ]])という、地理的にも言語的にも大きく離れた2つの地域から構成されることとなった。人口は東パキスタンが多かったものの、政治の中枢は西パキスタンにあった。東パキスタン(現バングラデシュ)の人々は多くが[[ベンガル語]]を母語とし、西パキスタンでは[[パンジャーブ語]]、[[パシュトー語]]、[[シンド語]]などが話され、一方で政府中枢ではインド・イスラム王朝の歴史的中心地[[デリー]]の言語である[[ウルドゥー語]]が用いられていた。これらの言語は、いずれも[[インド・ヨーロッパ語族]]の[[インド語派]]に属してはいるが、言語自体はかなりの隔たりがある。イスラム教徒の言語による団結を掲げた[[ジンナー]]はじめ[[パキスタン]]政府は、ウルドゥー語を全パキスタンの唯一の[[国語]]として掲げメディアや学校などでウルドゥー語のみを用いさせようとした。政府中枢の推進するウルドゥー語に対する反発は西パキスタンでもあったが、元々ベンガル語を主流としウルドゥー語とより疎遠であった東パキスタンでは反発はさらに強かった。パキスタン政府首脳部がベンガル語ないしベンガル地域を[[ヒンドゥー教|ヒンドゥー化]]されたイスラムにそぐわないものと見なしていたことも反発に拍車をかけた。
 
イスラム教徒の言語による団結を掲げた[[ジンナー]]はじめ[[パキスタン]]政府、ウあくまでベンガドゥー語を含めたパキスタン国内全て唯一の[[国]]を平等に扱うべき要求して掲げいたがメディアや学校などでウルドゥー1952年に至り国のみ用いさせようとし求め。これに対し[[ダッカ大学]]の学生がすぐさま抵抗を開始した運動に加わることになる1952年[[2月21日]]に学生たちは抗議活動集会開催すると宣言した。中央政府するも、パキスタン当局は法令144に基づき集会反政府行、集会てこれを禁じることでこ参加者には発砲を許可して運動の封じ込めにかかを図った。それにも関わらず学生たちは集会は反政府を強動とみな、射殺する、とした。[[2月21日]]、集会を開いている学生たちがいた。行動を中止し解散させようと言う 学生たち、命を賭する軍隊が参加者に向けて発砲て戦おうと言う多くの学生たち。結局学生たちは命より言語(ベンガル語)を選び、敢然が犠牲行動し、そして死んでいった。
[[ファイル:Mural - Abul Barkat - Rafiq Uddin Ahmed - Abdus Salam - Abdul Jabbar - Bengali Language Movement 1952 Martyrs - Teacher-Student Center - University of Dhaka - Dhaka 2015-05-31 2485.JPG|サムネイル|ダッカ大学にある犠牲となった学生のレリーフ]]
 
Rafiq、Jabbar、ShafiurそしてSalam、その他、勇気ある学生たちが犠牲となった。彼らの倒れた[[ダッカ]]大学構内の地に、[[ショヒド・ミナール]](言語に殉じた若者たちの碑)が建てられた。碑は、悲しみの母と倒れた息子たちを表している。母語を死守しようして倒れた息子たちを思い、母は頭を垂れる。後ろ の赤い円は、死んでいった若者たちの血である。人が命に代えて言語を守ったのは、歴史で初めてのことだった。それから 半世紀後の1999年、ユネスコは、2月21日を'''国際母語デー''' (International Mother Language day) に制定した。世界のあらゆる[[言語]]を守るために。
 
なお[[ショヒド・ミナール]]のレプリカは世界各地に建てられている。日本にも、[[池袋駅]]近くの公園に存在する。