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東パキスタン側はあくまでベンガル語を含めたパキスタン国内全ての母語を平等に扱うべきと要求していたが、1952年に至り国語化を求めた[[ダッカ大学]]の学生が運動に加わることになる。[[2月21日]]に学生たちは抗議集会を開催すると宣言するも、パキスタン当局は法令144に基づき集会を反政府行動としてこれを禁じ参加者には発砲を許可して運動の封じ込めを図った。それにも関わらず学生たちは集会を強行し、集会を解散させようとする軍隊が参加者に向けて発砲し多くの学生が犠牲となった。
[[ファイル:Mural - Abul Barkat - Rafiq Uddin Ahmed - Abdus Salam - Abdul Jabbar - Bengali Language Movement 1952 Martyrs - Teacher-Student Center - University of Dhaka - Dhaka 2015-05-31 2485.JPG|サムネイル|ダッカ大学にある犠牲となった学生のレリーフ]]
彼らの倒れた[[ダッカ]]大学構内の地に、[[ショヒド・ミナール]](言語に殉じた若者たちの碑)が建てられた。碑は、悲しみの母と倒れた息子たちを表している。中央の屈曲した碑は、母語を死守しようして倒れた息子たちを思い、母は頭を垂れる母親を表している。後ろ の赤い円は、死んでいった若者たちの血である。人が命に代えて言語を守ったのは、歴史で初めてのことだった。それから 半世紀後の1999年、ユネスコは、「人類が使う、全ての言語の保存・保護を推進する」ことを目的に、2月21日を'''国際母語デー''' (International Mother Language day) に。世界のあらゆる[[言語]]を守るために
 
なお[[ショヒド・ミナール]]のレプリカは世界各地に建てられている。日本にも、[[池袋駅]]近くの公園に存在する。