「ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス」の版間の差分

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[[1937年]]、大統領選挙を目前とする中で、再び軍事行動によって選挙を中止させると、議会も解散させて独裁政治を行った(この時期を[[エスタード・ノーヴォ]]体制(新国家体制)とも称する)。新国家の樹立にも力を尽くした極右政党の[[ブラジル統合主義運動]]も解散させた<ref name="乗308" />。労働者の保護と規制による体制化、資源の国有化、有色移民の制限を規定した憲法によって、イタリアやドイツの全体主義に似た理念で自主外交の確立と統一国家の形成を目指した<ref name="乗308" />。
 
やがて経済的にも関係が深い[[アメリカ合衆国]]との協調路線を明らかにして、[[1942年]]に[[日本]]や[[ドイツ]]、[[イタリア]]に[[宣戦布告]]し、[[第二次世界大戦]]に参戦。1944年にはイタリア戦線に派兵した<ref name="乗308" />。ヴァルガスの独裁は第二次世界大戦中も続き、[[日系人の強制収容]]も行うが、終戦後の[[1945年]][[10月]]末に軍事クーデタが起こり失脚した。しかし同じ年のうちに上院議員に選出された<ref name="乗308" />。
 
[[1951年]]には、ヴァルガスはかつてのような軍事クーデタでなく、ブラジル史上初の民主的選挙によって大統領に就任した。その際、都市[[プロレタリアート]]や左翼からの支持を集めるため、その政治姿勢はかつてより左傾化しており、このために第二次ヴァルガス政権と、以降1964年までの諸政権の時代を[[ポプリズモ]]時代と呼ぶ。彼の民族主義的、ポプリスタ的姿勢は都市労働者や[[中流階級]]を引きつけたが、戦後の好況期の終わりとともに支持も衰退した<ref name="乗308" />。
 
政権末期は[[国民解放党 (ブラジル)|国民解放党(共産党)]]に接近した。[[1954年]]にはこれに反発を抱いた[[アメリカ合衆国]]から独裁政治を糾弾される。また、反大統領の姿勢をとるジャーナリスト暗殺計画などへの関与も疑われ、ヴァルガスへの退陣要求が強まった。こうした中、[[1954年]][[8月25日]]にヴァルガスはピストル自殺を遂げた。