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重政の死後、息子の吉右衛門は同じ蒲生家臣だった祖心尼の夫・[[町野幸和]]に保護され、幸和、祖心尼夫妻の娘おたあと結婚した。2人の間に生まれたのがお振である。幸和も数年後には蒲生家を退転しており、その後しばらくの間は記録にないが、その間に[[江戸]]に移ったと考えられる。やがて祖心尼は、親類にあたる[[春日局]]の引き立てで[[大奥]]に老女として仕えるようになり、振は春日局の養女として大奥に入り、寛永13年([[1636年]])、家光の手がついて初めての側室となる。これは、家光が[[男色]]を好み女性を近づけないため、跡継ぎが生まれないことを懸念した春日局と祖心尼が、振を男装させて近づけたといわれている。
 
振の生年は不明であるが、父方の祖父岡重政が1579年生まれ、母方の祖母祖心尼が1588年生まれであることから見て、この時12歳から14歳と推定される(これ以上幼ければ側室にはなれず、これよりずっと年長である満17歳以上ー1619年以前の生まれである可能性はほぼない)。[[白川亨]]は、振が出産後に死亡したのは成熟していないために無理な出産だったからではないかとの私見を述べている。[[海音寺潮五郎]]も『武将列伝』において、13歳だったお楽の方([[宝樹院 (徳川家光側室)|宝樹院]])が家光に見初められたエピソードを紹介した上(この時点で振の存在が発見されていなかったため、お楽が最初の女性としている)で、家光は男色を好んでいたため美少年が好きであり、女性の好みも最初はボーイッシュな美少女からだったとしている。<ref>『ビジュアル日本史ヒロイン1000人』174頁</ref>
 
[[File:Mausoleum of concubine OHURI no KATA at Edo-Tokyo Open Air Architectural Museum, Koganei City.jpg|thumb|旧自証院霊屋。[[江戸東京たてもの園]]]]