「フランシスコ・デ・ゴヤ」の版間の差分
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サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ聖堂 |
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[[画像:Francisco de Goya y Lucientes 054.jpg|thumb|カルロス4世の家族(1800-1801年)([[プラド美術館]])|300px]]
[[画像:Francisco de Goya y Lucientes 009.jpg|thumb|着衣のマハ(1797年-1803年頃)(プラド美術館)|300px]]▼
[[画像:Francisco de Goya y Lucientes 011.jpg|thumb|裸のマハ(1797年-1800年頃)(プラド美術館)|300px]]▼
'''フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス'''('''Francisco José de Goya y Lucientes''', [[1746年]][[3月30日]] - [[1828年]][[4月16日]])は、[[スペイン]]の[[画家]]。[[ディエゴ・ベラスケス]]とともに、[[スペイン]]最大の画家。べラスケス同様、宮廷画家として重きをなした。
===生涯===
[[1746年]]、スペイン北東部[[サラゴーサ]]近郊の[[フエンデトードス]]に生まれる。14歳の時から約4年間、サラゴーサで地元の画家に師事して絵画の修行をする。この間、のちにゴヤの義兄となる、兄弟子・フランシスコ・バエウ(バイユー)に出会う。
27歳の時、バエウの妹ホセーファと結婚。その後離婚。
[[1774年]]、バエウの手引きでマドリードへ出て、[[1775年]]から十数年間、王立タペストリー工場で[[タペストリー]]の下絵描きの仕事に携わる。
このように、40歳
▲[[画像:Francisco de Goya y Lucientes 009.jpg|thumb|着衣のマハ(1797年-1803年頃)(プラド美術館)|300px]]
▲[[画像:Francisco de Goya y Lucientes 011.jpg|thumb|裸のマハ(1797年-1800年頃)(プラド美術館)|300px]]
▲このように、40歳台にさしかかって、ようやくスペイン最高の画家としての地位を得たゴヤは、[[1792年]]、不治の病に侵され、聴力を失う。今日、ゴヤの代表作として知られる『カルロス4世の家族』、『着衣のマハ』、『[[裸のマハ]]』、『マドリッド、1808年5月3日』、『巨人』などはいずれも、ゴヤが聴力を失って以後の後半生に描かれたものである
[[1786年]]、40歳で国王[[カルロス3世 (スペイン王)|カルロス3世]]付き画家となり、1789年には新王[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]の宮廷画家となる。
▲[[画像:Francisco de Goya y Lucientes 023.jpg|thumb|left|マドリッド、1808年5月3日(1814年)(プラド美術館)|300px]]
[[1807年]]、[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]率いるフランス軍がスペインを侵略し、翌[[1808年]]にはスペイン王フェルナンド7世を退位させて、ナポレオンの兄ジョーゼフがホセ1世としてスペイン王位についた。事実上、ナポレオン軍の支配下に置かれたスペインは、1808年から[[1814年]]にかけて[[半島戦争]]のさなかにあった。
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[[1819年]]にはマドリード郊外に「聾者の家」と通称される別荘を購入した。[[1820年]]から[[1823年]]にかけて、この「聾者の家」のサロンや食堂を飾るために描かれた14枚の壁画群が、今日「[[黒い絵]]」と通称されるものである。
当時のスペインの自由主義者弾圧を避けて[[1824年]]、78歳の時
現在は、マドリード郊外にある[[サン・アントニオ・デ・ラ・フロリダ聖堂]](Ermita de San Antonio de la Florida)に眠っている。この聖堂の天井に描かれた[[フレスコ画]]、『アントニオの奇跡』もゴヤの作品である。
[[カルロス4世 (スペイン王)|カルロス4世]]とその家族を描いた集団肖像画は、一見普通の宮廷肖像画にみえるが、仔細にみると、いかにも暗愚そうなカルロス4世の風貌や、狡猾で底意地の悪そうな夫人の表情などには、ゴヤの精一杯の風刺が感じられる。
==代表作==▼
{{commons|Francisco de Goya}}
▲==代表作==
*[[巨人]](1808年-1812年頃)(プラド美術館)
*[[サトゥルヌス|わが子を食うサトゥルヌス]](1820年-1823年)(プラド美術館)
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