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'''司馬 遐'''(しば か、[[泰始 (晋)|泰始]]9年([[273年]]) - [[永康 (晋)|永康]]元年[[6月13日 (旧暦)|6月13日]]<ref>『晋書』巻4, 恵帝紀 永康元年六月壬寅条による。</ref>([[300年]]
== 経歴 ==
容姿や振る舞いが美しく、精彩があったので、司馬炎に寵愛された。
[[咸寧 (晋)|咸寧]]3年([[277年]])、清河王に封じられ、叔父の城陽哀王[[司馬兆]]の後を継いだ。
[[太康 (晋)|太康]]10年([[289年]])、[[勃海郡]]を封邑とし、[[右将軍]]・散騎常侍・[[前将軍]]を歴任した。
[[元康 (晋)|元康]]元年([[291年]])、撫軍将軍に昇進し、[[侍中]]を加えられた。司馬遐は気弱で決断力も無く、内向的な性格のために士大夫とうまく接することができなかったという。
6月、[[恵帝 (西晋)|恵帝]](司馬衷)の皇后[[賈南風]]は国政を掌握していた汝南王[[司馬亮]]と[[録尚書事]][[衛瓘]]を排斥するため、楚王[[司馬瑋]]に密詔を与えて彼らの捕縛を命じた。司馬瑋は自ら統括している北軍を動かして挙兵すると、司馬遐に衛瓘の逮捕を命じた。これを受け、司馬遐は衛瓘邸を包囲すると、衛瓘はこれと争わずに逮捕を受け入れた。司馬遐配下の帳下督[[栄晦]]はかつて罪を侵して衛瓘に罰せられた事があり、栄晦は私怨を晴らすために衛瓘とその子の[[衛恒]]・[[衛嶽]]・[[衛裔]]と孫等9人を殺害した。司馬遐はこれを制止することが出来なかったので、当時非難の的となった。
== 子女 ==
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*司馬詮(上庸王、豫章王、[[懐帝 (西晋)|懐帝]]の皇太子、[[洛陽]]が陥落すると[[劉聡]]に捕らえられ、殺害された)
*司馬端(広川王、豫章王、仮節・散騎常侍・平南将軍・都督[[江州 (江西省)|江州]]諸軍事、洛陽陥落後に[[苟晞]]によって皇太子に擁立されたが、[[石勒]]に捕らえられた)
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
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