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[[元康 (晋)|元康]]元年([[291年]])、撫軍将軍に昇進し、[[侍中]]を加えられた。司馬遐は気弱で決断力も無く、内向的な性格のために士大夫とうまく接することができなかったという。
 
同年6月、[[恵帝 (西晋)|恵帝]](司馬衷)の皇后[[賈南風]]は国政を掌握していた汝南王[[司馬亮]]と[[録尚書事]][[衛瓘]]を排斥するため、楚王[[司馬瑋]]に密詔を与えて彼らの捕縛を命じた。司馬瑋は自ら統括している北軍を動かして挙兵すると、司馬遐に衛瓘の逮捕を命じた。これを受け、司馬遐は衛瓘邸を包囲すると、衛瓘はこれと争わずに逮捕を受け入れた。司馬遐配下の帳下督[[栄晦]]はかつて罪を侵して衛瓘に罰せられた事があり、栄晦は私怨を晴らすために衛瓘とその子の[[衛恒]]・[[衛嶽]]・[[衛裔]]と孫等9人を殺害した。司馬遐はこれを制止することが出来なかったので、当時非難の的となった。
 
永康元年(300年)6月、死去。享年は28であった。康と諡された。子の[[司馬覃]]は後に皇太子に立てられた。