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'''三好 政康'''('''みよし まさやす'''、[[享禄]]元年([[1528年]]) - [[慶長]]20年[[5月7日 (旧暦)|5月7日]]([[1615年]][[6月3日]]))は[[三好政長]]の子で[[三好政勝]]の兄(ただし、政長の子でないとする説もある)。[[三好三人衆]]の一人。出家後の名は三好入道清海。
 
[[21歳の時に父の三好三人衆]]の政長を人であり、父死後惣領三好長慶に討たれた。[[細川晴元]]の家臣として[[三好長慶]]と戦ったこともあるが、やがて長慶の和解勧告応じ臣従して、その家臣となり、有能な前線指揮官として活動した
 
三好長慶の勢力拡大に貢献し、[[1555年]]の[[丹波国|丹波]]攻めや[[1562年]]の[[畠山高政]]攻めのいずれにも参陣して武功を著している。長慶の死後は[[松永久秀]]や他の三人衆とともに[[永禄の変]]を起こして[[三好氏]]と対立する13代[[将軍]][[足利義輝]]を倒し、義輝の従弟の[[足利義栄]]を14代将軍に擁立したが、やがて久秀と対立して抗争する。[[織田信長]]が上洛してくると他の三人衆とともに共同して織田軍と戦ったが、敗れて退き、動向が不明となった。
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そして、信長に敗れて動向がわからなくなってから約5年の歳月が流れた後、天下人であった[[豊臣秀吉]]の家臣として再びその動向が明らかになる。秀吉が死去し、天下が[[徳川家康]]にわたると多くの豊臣家家臣が退去する中で、秀吉の子である[[豊臣秀頼]]にも仕えつづけ、[[1615年]]、[[大坂の役|大坂の陣]]にも87歳の高齢ながら参加。あえなく戦死した。
 
豊臣秀頼に誠忠を尽くし討ち死にした最期から、講談で有名な[[真田十勇士]]の一人、三好清海入道のモデルになった。
彼の人生は波乱万丈という言葉が相応しい。青年期の21歳の時に父の三好政長を一族の惣領、三好長慶に討たれ、その後、長慶に抵抗するも、長慶の和解勧告に応じ帰順。その後は長慶を支える一族武将として前線指揮官として活動し、長慶が死去すると、将軍暗殺などに関与するなど逆臣となった。織田信長の上洛に際しては抗戦するもののかなわず敗れ、動向不明となり、その後、織田信長が[[本能寺の変]]で横死すると、豊臣秀吉の家臣として再び現れ、最期は、秀吉の遺児、秀頼に誠忠を尽くし討ち死にした。その誠忠な最期から講談で有名な[[真田十勇士]]の一人・三好清海入道のモデルにされた。
 
[[Category:三好氏|まさやす]]