「イマヌエル・カント」の版間の差分

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逸話逸話化。義務論追加。奥都城削除。
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[[Image:Kant's tombstone Kaliningrad.jpeg|thumbnail|right|190px| [[ケーニヒスベルク]]の[[奥津城]]]]
[[1804年]]2月12日に逝去。晩年は老衰による身体衰弱に加えて[[老人性痴呆症]]が進行、膨大なメモや草稿を残したものの著作としてまとめられることは遂になかった。彼は後の言葉は「これでよい」(Es ist gut.) だったと伝えられる。偉大な倫理学者が生涯の終わり残した名言として美化されがちだが、末期の水がわりに水で薄めた[[ワイン]]を口にした直後の発言、「これあり、実際には自らの人生に対する総括というりも「もう(十分飲んだから)結構」とか「(ワインが)うまねえ(Es ist gut.) た程度の意味ではなかて息を引き取ったと言われている。当時のドイツの哲学者は、論敵をも含めてカントの死に弔意を表した。死去から半月以上経過した[[2月28日]]になって(真冬だったことに加えて遺体は水分が抜けて半ば[[ミイラ]]化しており、埋葬を急がなくて済んだためという)大学葬が行われ、市の墓地に葬られた。その[[奥津城]]は現在も[[カリーニングラード]]に所在する。
 
==思想==
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最後にカントは狭義の理性ではないが、人間の認識能力のひとつ判断力について考察を加え、その一種である反省的判断力を「現実をあるカテゴリーの下に包摂する能力」と定式化し、これを美的(直感的)判断力と目的論的判断力の二種に分けて考察を加えた。これが『判断力批判』である。この書は、その後展開される実践論、美学などの基礎として評価されている。また[[ハンナ・アレント]]以降、『[[判断力批判]]』を政治哲学として読む読み方が提示され、現代哲学においてカントの占める位置は極めて重要であるといえよう。
 
批判期以降のカント(後批判期)は、ふたたび宗教・[[倫理学]]への関心を増した。とくに[[フランス革命]]にカントは重大な衝撃を受け、関心をもってその推移を見守っていた。後期著作の道徳論や人間論にはその知見が投影されている。その道徳論は[[義務論]]倫理として現在の二大[[規範倫理学]]の一方をなしている。
 
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===有名な言葉===
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カントは規則正しい生活習慣で知られた。早朝に起床し、少し研究した後、午前中は講義など大学の公務を行った。帰宅して、決まった道筋を決まった時間に散歩した。あまりに時間が正確なので、散歩の通り道にある家では、カントの姿を見て[[時計]]の狂いを直したと言われる。これは、カントの性格の一部でもあったようで、素行の悪さの故に従僕ランペを解雇したあと、新しい従僕になじめず、メモに「ランペは忘れ去られるべきである」と書き付けた。<br/>
ある日いつもの時間にカント先生が散歩に出てこないので、周囲の人々はなにかあったのかと騒ぎになった。実はその日、カントは[[ルソー]]の「[[エミール]]」を読みふけってしまい、いつもの散歩を忘れてしまったのであった。カントはルソーに関し、「私の目を開けてくれたのは[[ルソー]]である。」と述べている。<br/>
・・・と、ういう逸が伝わっているものの、どこまで信頼できるかについては意見が分かれている。一説によれば、生涯にわたって基本的に規則正しかったのは確かだが、偏執狂的に規則正しくなったのはかなり高齢になってからのことだという。つまり人間誰でもそうだが、年を取って生活が単調になった結果というので指摘もある。実際、若い頃にはたまに夜中まで友達と飲み歩くようなこともしていたらしい。
 
=== 趣味人カントの食卓 ===