「旅順攻囲戦」の版間の差分

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また、あまり知られてはいないが旅順要塞(要塞戦)に苦しめられた[[日本陸軍]]は、旅順港に築かれていた永久防塁(トーチカ)を模倣し、[[習志野]]演習場内に1/6サイズの[[旅順要塞の模型]]をつくり、実際に演習などを行い、ロシアの要塞技術や戦術・戦法について研究を行ったといわれている。
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1904年9月、[[与謝野晶子]]が「旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて」と『[[与謝野晶子#君死にたもうことなかれ|君死にたまふ(う)ことなかれ]]』を『明星』に発表した。弟は無事帰還したのだが、実は軍が敵を欺くため、日本で最弱といわれる大阪の師団を旅順に向かわせたかのような情報を流したために晶子は弟が日露戦争最大の激戦地に投入されたと思ったのだが、実際には弟は旅順には行っていない、ということが旧陸軍大学の資料によって明らかになっている。
 
==参考文献==
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*[[別宮暖朗]]『「坂の上の雲」では分からない旅順攻防戦―乃木司令部は無能ではなかった』(2004年) ISBN 4890631690
*[[ジョン・エリス]]『機関銃の社会史』(平凡社、1993年)
*[[入江春行]]『与謝野晶子とその時代』(新日本出版社、2003年)
 
{{日露戦争}}