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'''宝蔵王'''(ほうぞうおう、生年不詳 - [[682年]]?
==治世==
政変を起こして権力を取った淵蓋蘇文によって王に擁立されたので、王としての実権を持つことはできなかった。
[[新羅]]とは敵対関係が続いてしばしば新羅を攻撃し、[[百済]]とは緊密な関係を維持した。唐の高句麗遠征を招き、[[太宗 (唐)|太宗]]の間は凌いだものの、[[高宗 (唐)|高宗]]の代になって防ぎきれず、[[668年]]に高句麗は滅亡した。宝蔵王は唐に投降したが、政治の責任が王になかったとして唐から<司平大常伯・員外同正>に任命された。▼
▲[[新羅]]とは敵対関係が続いてしばしば新羅を攻撃し、[[百済]]とは緊密な関係を維持した。唐の高句麗遠征を招き、[[太宗 (唐)|太宗]]の間は凌いだものの、[[高宗 (唐)|高宗]]の代になって防ぎきれず、[[668年]]に高句麗は滅亡した。宝蔵王は唐に投降したが、政治の責任が王になかったとして処刑されることはなく、唐から<司平大常伯・員外同正>に任命された。
==高句麗滅亡後==
[[677年]]には<遼東州都督・朝鮮王>に任命されて[[遼東]]に帰って来た。これは唐の朝鮮半島放棄による遼東地域の動揺を阻むために執った計略だったが、宝蔵王はむしろ高句麗流民を糾合して[[靺鞨]]と内通して高句麗復興をはかった。このような事実が
*滅亡したために高句麗王としては
==参考文献==
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