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'''聖変化'''('''transubstantiation''', '''consecration''', '''Пресуществление''')は
*[[カトリック教会|カトリック]]教理の[[聖餐|聖体の秘跡]]において、[[パン]]と[[ぶどう酒]]を[[司祭]]が[[聖別]]するとき、パンとぶどう酒のすべての[[実体]]は[[外観]](偶性)のみ残してキリストの実体に変化すること。この時、キリストの実体とは、体と血と[[霊魂]]を含む人性と[[三位一体]]の[[神性]]との実体のすべてを指す。この定義は[[第4ラテラン公会議]]および[[トリエント公会議]]で公式に認められた。
:聖変化について、カトリック教会では[[アリストテレス]][[哲学]]による定義を用い、事物は実体と偶性(大きさ、色、かたち)からなり、実体それ自体は概念的なものであって偶性を伴ってはじめて存在するとする。従って、聖変化後のパンとぶどう酒は、偶性、即ちそれらの外観や科学的な組成は変わらずとも、実体は変化したと考える。そして実体は概念であるが故に不可視・不可触なものである。聖変化についして他教派や非キリスト教徒からしばしば受ける、パンとぶどう酒は(聖変化後も)何ら変わることがないという批判の一部は、この実体と偶性という事物の捉え方に関する理解の欠如から来ているものである。他方、概念としての実体変化の有無に対する見解の相違、或いは批判は、カトリック神学と他教派の神学における聖餐論の違いであるといえよう。
*[[東方正教会]]の[[機密 (キリスト教)|機密]]の一つである[[聖体機密]]は[[聖体礼儀]]において行われる。パンとぶどう酒が聖体血に変わる聖変化についての定式は判然としないが、聖体礼儀から派遣されて此の世での日常を生きた我々の生活がパンとぶどう酒として捧げられている、このダイナミズムこそが聖変化の動力であるという見方もできる。
:聖体血の扱い方に関する取り決めはある。管見の範囲で言えば、聖体血のかけらが落ちた場合には、手で拾わずに口で直接に聖体血を拾う。絨緞に聖体血をこぼした場合には、誤って踏んでしまわない為にこぼした箇所を切り抜いて焼いてしまう。