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m →‎城の構造: 笹岡古城
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天守台・石垣・土塁などが残っている。ただし東側を中心に車道や神社の建設の際に一部の遺構が破壊されている。また、井戸櫓が清瀧寺に復元されている。昭和36年([[1961年]])に市(当時は[[天竜市]])の指定遺跡に指定されており、合併後の浜松市も引き継いでいる。
 
=== 笹岡古城 ===
 
二俣築城以前の二俣周辺の支配の中心と考えられる城館跡の現在の呼び名である。遺構のほとんどは昭和42年([[1967年]])の天竜市役所(当時)建設の際に破壊され、現在は背後の本城山に土塁が残っている。市役所建設の事前発掘調査の際に山茶碗・青磁・白磁・井戸枠・柱根などの出土品が発掘され、当地が城館として機能していた可能性が高いことうかがわせた。築城時期については『遠江国風土記伝』には二俣昌長が[[文亀]]年間([[1501年]]-[[1503年]])に築城し、地元の民衆はこれを「古城」と呼んでいるとあるが、裏付ける史料がなく不明である。
 
=== 鳥羽山城 ===
 
徳川家康が二俣城を攻める際に付城とした鳥羽山城も庭園など多くの遺構が残っている。この城については史料に天正3年6月に築城したという記録しか残っていないが、昭和26年([[1951年]])から20数年にわたって地元の郷土史研究家の鈴木喜代治氏が単独で発掘を行い続けたことにより大規模な遺構の存在が明らかになり、昭和49年([[1974年]])から翌年にかけてに天竜市教育委員会による大規模な発掘調査が行われた。これにより、二俣城と同規模の以上の城郭があったことが判明し、各曲輪・枡形門跡・庭園・石垣・井戸・排水溝などの遺構が発掘された。特に庭園については、立石などから[[安土桃山時代]]の形式で枯山水の庭園であると考えられる。また、染付・天目茶碗・鉄釉仏飯器なども発見されている。これらのことから、家康の二俣城攻略の後には、鳥羽山城は二俣城の一部として機能したと考えられている。
 
なお、鳥羽山城跡は現在は公園として整備され、市民の憩いの場となっている。
 
== アクセス ==