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{{暴力的}}
{{観点|date=2019年3月}}
'''南京事件'''(ナンキンじけん)は、[[日中戦争]]初頭の[[1937年]]([[昭和]]12年/[[民国紀元|民国]]26年)12月、[[日本軍|大日本帝国軍]]が[[中華民国]]の[[南京市]]を[[占領]]した際、約2カ月にわたって千から二十万人[[中華民国国軍|中華民国軍]]の[[捕虜]]、敗残兵、[[便衣兵]]および一般[[市民]]を[[殺害]]<ref name="原2002-78">[[原剛 (軍事史家)|原剛]]「南京虐殺事件」[[秦郁彦]]・[[佐瀬昌盛]]・[[常石敬一]]編『世界戦争犯罪事典』[[文藝春秋]]、2002年8月10日 第1刷、ISBN 4-16-358560-5、78頁。</ref><ref name=":1">{{Cite web |url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/index.html |title=アジア 歴史問題Q&A |access-date=2022-10-17 |publisher=[[外務省]] |date=2021-07-13 |quote=問6 「南京事件」に対して、日本政府はどのように考えていますか。
日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。}}</ref>、[[略奪]]<ref name=":1"></ref>、[[強姦]]、[[放火]]したとされる事件<ref>[[重村達郎]]「南京事件」『現代アジア事典』[[文眞堂]]、2009年7月20日 第1版第1刷発行、ISBN 978-4-8309-4649-3、866頁。</ref>{{refnest|group="注釈"|[[原剛 (軍事史家)|原剛]]によると、不法殺害事件が「南京虐殺事件」で、「単に『南京事件』という場合、不法殺害のほか掠奪・強姦などの不祥事を含めた全体を意味しているようである。」という<ref name="原2002-78"/>。}}{{refnest|group="注釈"|[[笠原十九司]]によると、「南京事件」は「南京大虐殺事件」の略称である、という<ref>[[笠原十九司]]「南京事件」[[吉田裕 (歴史学者)|吉田裕]]・[[森武麿]]・[[伊香俊哉]]・[[高岡裕之]]編『アジア・太平洋戦争辞典』[[吉川弘文館]]、二〇一五年 (平成二十七) 十一月十日 第一版第一刷発行、ISBN 978-4-642-01473-1、488頁。</ref>。}}。この事件の呼称は「南京事件」「南京大虐殺」以外にも、様々な呼称がある([[#名称の種類と変遷|後述]])。
 
[[第二次世界大戦]]の[[終戦]]後、この事件の存在は、[[連合国軍占領下の日本]]において行われた[[極東国際軍事裁判]](東京裁判)で認定され<ref name=":2" /><ref name="sankei20150327-2">{{Cite web | url = https://www.sankei.com/article/20150327-WBFXX3E65FNRPE4UGUSZPNAF5Y/2/ | title = 「南京大虐殺30万人説」 日本にも歴史〝ねじ曲げ〟放置した重い責任 元兵士証言から浮かぶ歴史の真実 (2/6) | website = 産経ニュース | publisher = [[産経デジタル]] | date = 2015-03-27 | accessdate = 2023-10-18 }}</ref>、事件の責任が[[南京軍事法廷]]や極東国際軍事裁判で裁かれた<ref name=":2">{{Cite web |title=HyperWar: International Military Tribunal for the Far East [Chapter 8] |url=http://www.ibiblio.org/hyperwar/PTO/IMTFE/IMTFE-8.html |website=www.ibiblio.org |accessdate=2019-07-16}}</ref>。この東京裁判では、南京事件を抑えることができなかったとして当時の[[国際慣習法]]では責任を問われなかった<ref name="フィリップ.2009">{{Cite journal|和書|author=フィリップ・オステン|month=jan|year=2009|title=東京裁判における犯罪構成要件の再訪 : 初期国際刑法史の一断面の素描|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00224504-20090128-0315|journal=法學研究 : 法律・政治・社会|volume=82|issue=1|pages=315-338|publisher=慶應義塾大学法学研究会|naid=120005653126|ISSN=0389-0538}} PDF-P.7 より</ref>上官の部下の行為に対する責任(不作為責任)で有罪とされた被告もおり、それらの是非をめぐる議論が続いている({{節リンク|極東国際軍事裁判|裁判の評価と争点}})。南京軍事法廷でも、反証提出は許されなかったとされ<ref name="asa">朝日新聞昭和22年12月20日。稲田朋美『百人斬り裁判から南京へ』文藝春秋、p117</ref>、議論が続いている({{節リンク|南京軍事法廷|南京事件に関して}})
 
{{Infobox 民間人の攻撃
事件の真相には不明な点があり、各史料に食い違いが多いため<ref name="長谷川2009-866">[[長谷川啓之]]「南京」『現代アジア事典』文眞堂、2009年7月20日 第1版第1刷発行、ISBN 978-4-8309-4649-3、866頁。</ref>、事件の規模、「虐殺」の存否{{efn|「虐殺」を疑う根拠として、南京事件が発生したとされる時期の人口が20万人とされる<ref name="reiwashoseki">令和書籍 令和3年度文部科学省検定不合格教科書 令和四年五月十五日 360ページ</ref>、南京事件が発生したとされる後に人口が25万人に増加している<ref name="reiwashoseki"></ref>という主張や、中国側の軍人の多くが民間人に扮して便衣兵と呼ばれるゲリラ兵となって民間人を人質にして立て籠もり、敵対行為をする<ref name="reiwashoseki"></ref>などの国際法違反をしたためそれを逮捕・処刑したのを「虐殺」として数えている<ref name="reiwashoseki"></ref>、南京戦に参加した日本軍将兵の「虐殺」を目撃しなかったとする証言<ref name="sankei20150327-1">{{Cite web | url = https://www.sankei.com/article/20150327-WBFXX3E65FNRPE4UGUSZPNAF5Y/ | title = 「南京大虐殺30万人説」 日本にも歴史〝ねじ曲げ〟放置した重い責任 元兵士証言から浮かぶ歴史の真実 (1/6) | website = 産経ニュース | publisher = [[産経デジタル]] | date = 2015-03-27 | accessdate = 2023-10-18 }}</ref>がある。}}、[[戦時国際法]]違反か否かをめぐる[[南京事件論争|論争]]や、犠牲者数をめぐる[[南京事件の被害者数|論争]]が存在している。
| 名称 = 南京事件(南京大虐殺)
| 画像 = [[File:Nanking bodies 1937.jpg|border|300px]]
| 脚注 = [[秦淮河]]のほとりで市民の遺体とともに映る日本兵
| 場所 = [[南京市]]
| 地図 =
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = |N(北緯)及びS(南緯) =
| 経度度 = |経度分 = |経度秒 = |E(東経)及びW(西経) =
| 日付 = 1937年12月13日から6週間
| 時間 =
| 開始時刻 =
| 終了時刻 =
| 時間帯 =
| 標的 =
| 手段 = 大量殺人、強姦、略奪、放火
| 兵器 =
| 武器・凶器 =
| 死亡 = 数千人から20万人以上
| 負傷 =
| 行方不明 =
| 被害者 =
| 損害 =
| 犯人 =
| 容疑 =
| 動機 =
| 攻撃側人数 =
| 対処 =
}}
 
国際的には南京事件は事実とされている<ref name="UNESCO DOCS">{{cite web|url = https://en.unesco.org/sites/default/files/china_nanjing_en.pdf|title = International Memory of the World Register Documents of Nanjing Massacre|website = UNESCO|access-date = 23 March 2022}}</ref>一方、事件の真相には不明な点があり各史料に食い違いが多い<ref name="長谷川2009-866">[[長谷川啓之]]「南京」『現代アジア事典』文眞堂、2009年7月20日 第1版第1刷発行、ISBN 978-4-8309-4649-3、866頁。</ref>ため、事件の規模、虐殺の存否、[[戦時国際法]]違反か否かをめぐる[[南京事件論争|論争]]や、犠牲者数をめぐる[[南京事件の被害者数|論争]]が続いている。ほとんどの歴史学者は、日本軍によって比較的短期間に大量の中国人が殺害・強姦されたことに同意している<ref name=Askew>{{cite journal |journal=Electronic Journal of Contemporary Japanese Studies |date=2002-04-04 |title=The Nanjing Incident - Recent Research and Trends |first=David |last=Askew |access-date=2023-05-14 |url=http://www.japanesestudies.org.uk/articles/Askew.html}}</ref>一方、犠牲者数の推定は難しく数千人から20万人以上まで様々である<ref name=Askew />。[[日本国政府]]は「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないが、被害者の具体的な人数は諸説あり認定できない」と主張している<ref name=":1" />。
 
なお、歴史上「南京事件」と称される出来事は[[1913年]]9月([[南京事件 (1913年)|1913年の南京事件]])、[[1927年]]3月([[南京事件 (1927年)|1927年の南京事件]])にも存在したが、単に「南京事件」というと一般には1937年の本事件を指す<ref>原 (2002)、78~79頁。</ref>。
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=== 総人口 ===
南京の市街地の人口は、[[日中戦争]]以前は100万人以上とされるが、上海事変以来の爆撃や、[[南京戦|南京攻撃]]が近づいて中国政府首脳が重慶に移転したり、富裕層などが[[疎開]]したため、元からの住民の人口はかなり減少した<ref name=畝元1984-10/>。[[ジョン・ラーベ|ラーベ]]は11月28日の日記に「警察庁長から20万人と聞いた」、12月6日の日記に「約80万人の恵まれた市民が逃れた」と聞き伝えを記しており、[[ルイス・S・C・スマイス|スマイス]]の報告書には、陥落当時20万~25万人であったと記されている<ref name="原2003-37">[[原剛]]「南京大虐殺はあったのか」[[秦郁彦]]編『昭和史20の争点 日本人の常識』文藝春秋、2003年10月10日 第1刷、ISBN 4-16-365340-6、37頁。</ref>。ただし、日本軍の急進撃により、住民の脱出の試みは短期間に集中することになり、揚子江を渡る船便の不足や運賃の高騰により、脱出できずに取り残された人も実際にはかなりいたとみられる。また、夏ごろからの爆撃で疎開した者の中には初めから南京城市郊外に疎開していた者、日本軍の進攻が予想される地域から南京を目指してきた難民が多数あり、周辺地域の人口はかなり増えていたことも考えられる。実際に、南京城市外にも多数の難民キャンプが出来ている。
 
食糧供給の一端を担った[[南京安全区国際委員会]]が入城前に上海日本当局へ送った11月30日付の電報には「安全地帯を運営する際には、総計20万人の世話をする必要があると見積もられている」とあり、12月18日、25日にも20万人と記録され、翌年1月14日以後は日本軍のカウントを基に25万人へと上方修正してはいるものの、それ以外の数字の変化は無く、12月13日の日本軍入城後も市民人口は一定であったとの認識を示している<ref>池田悠『一次史料が明かす南京事件の真実 <small>アメリカ宣教師史観の呪縛を解く</small>』[[展転社]]、令和二年一月二十一日 第一刷発行、ISBN 978-4-88656-496-2、107~109頁。</ref>。むろん、城外の人口が無くなっているわけではなく、スマイスはこれらの地域の人口と被害状況の調査にも取組んでいる。{{Main2|議論|南京事件論争#人口推移}}
 
== 犠牲者 ==
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==== 南京安全区 ====
{{see also|南京安全区国際委員会}}
{{仮リンク|南京安全区|en|Nanking Safety Zone}}とは、[[南京戦]]前の11月、[[ジョン・ラーベ]]及びアメリカ人宣教師たち(プラウマー・ミルズ、[[ジョン・マギー]]、[[マイナー・シール・ベイツ]]や女性宣教師[[ミニー・ヴォートリン]]などを中心とする約15名)によって、戦災に巻き込まれた市民を救済するという名目で組織された[[南京安全区国際委員会]](別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内に設定した地域である。上海安全区とは異なり中立性に疑義があったため日本からは承認されず、非公式なものであった<ref>‘The Nanjing Safety Zone Unapproved’ by [[:no:Marcia R. Ristaino|Marcia Ristaino]] "Jacquinot Safe Zone: Wartime Refugees In Shanghai" P81</ref>
 
安全区設置の目的については、(ヴォートリンの日記に記されていた、安全区設立発案者のミルズの発言'try to encourage and comfort the Chinese army'から)、布教の為に中国軍の支援保護を行うことにあった<ref name="ikeda">{{Cite book|和書|author=池田悠|title=正論12月号 検証!「南京事件」の発信源|year=2018|publisher=産経新聞社}}{{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>とし、その前提に1937年5月6日の全国基督教連盟による、プロテスタントである蔣介石の実質的な建国活動(=新生活運動:スローガンは民衆生活の軍事化・生産化・芸術化)への全面支援決議があったとする見方がある<ref>池田悠『一次史料が明かす南京事件の真実ーアメリカ宣教師史観の呪縛を解く』展転社、2020年。P128-129</ref>(安全区内に、戦闘中は中国軍の砲台が置かれ、戦闘後は中国兵の潜伏を許したことが確認されているとの主張がある<ref name="ikeda"/>)。上海安全区とは異なり中立性に疑義があったため日本からは承認されず、非公式なものであった<ref>‘The Nanjing Safety Zone Unapproved’ by [[:no:Marcia R. Ristaino|Marcia Ristaino]] "Jacquinot Safe Zone: Wartime Refugees In Shanghai" P81</ref>。
 
安全区内の人口は南京陥落直後は約20万人(諸説あり)との推測値があり、南京城内の南京安全区以外の区域は住民が少ない状況となった<ref>「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」 [[笠原十九司]] [[岩波現代文庫]] [[岩波書店]]78-82頁</ref>。
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{{Main2|議論|南京事件論争#当時の国際報道についての議論}}
当時、南京には欧米人記者5名が駐在しており、日本軍占領後に船で上海に移動したが、5名の記者達は、一部は、ベイツ宣教師から渡された声明<ref name=":0">{{Cite book|author=|title=“Moreover, the book<What War Means> uses a statement which I prepared on the 15th of December to be utilized by the various correspondents leaving Nanking on that date.” (Circular letter to friends, Bates, April 12, 1938)|date=|year=|accessdate=|publisher=}}{{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>をそのまま、一部は声明<ref name=":0" />にアレンジまたは自分の体験を加え、欧米で南京事件を報道した<ref>Suping Lu,They Were in Nanjing: The Nanjing Massacre Witnessed by American and British Nationals,2004,Hong Kong University Press
p19-42.</ref>。そして、アメリカの『[[シカゴ・デイリーニューズ(英語版]])』(12月15日付)<ref>「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」 464-468頁</ref>や『[[ニューヨーク・タイムズ]]』(12月18日、19日付)<ref>南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」 417-422頁 422-425頁。[[#秦 (2007)|秦 (2007)]]、1-7頁にも訳文等あり。</ref>、イギリスの『[[タイムズ]](ロンドン・タイムズ)』(12月20日)<ref>記事アーカイブあり。日本語訳「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」より503-505頁</ref>のような有力紙の記事、ロイター通信社による新聞記事によって、事件初期の殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為(Nanjing Atrocities)が日本軍によって行われたとして伝えられて報道された<ref>英文記事資料あり [http://www.readex.com/readex-report/nanjing-atrocities-reported-u-s-newspapers-1937-38 The Nanjing Atrocities Reported in the U. S. Newspapers, 1937-38]</ref>。1938年以降も新聞記事や雑誌(アメリカ雑誌「[[ライフ (雑誌)|ライフ]]」誌の特集(1月、5月)で報道される<ref>1月10日号「ライフ」P.50 「The Camera overseas The Japanese Conqueror brings A Week of Hell to China」、5月16日号「ライフ」P.13「These Atrocities Explain Jap Defeat」</ref>。池田悠によれば、発信源はほぼ全て現地に残留した米国人宣教師たちで、彼ら宣教師による事件の創作を中国政府が利用した、という<ref>{{Cite book|author=池田悠|title=正論12月号 検証!「南京事件」の発信源|date=|year=2018|accessdate=|publisher=産経新聞社}}{{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>。
 
=== 事件発生後の外国人の反応 ===
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;弁護側証人
{{Main2|弁護側反証|極東国際軍事裁判#弁護側反証}}
東京裁判に出廷した日本人証言は[[宣誓]]した上で[[証言]]し、かつ検察官による反対尋問が行われた<ref name=saisin/>。なお、中国人証人に対しての反対尋問は行われていない<ref name=saisin>[[竹本忠雄]]、[[大原康男]]共著、『再審「南京大虐殺」 世界に訴える日本の冤罪』明成社 (2000){{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>。
*上海派遣軍法務官兼検察官の塚本浩次は担当した案件の大部分は散発的な事件で、殺人は2,3件で、放火犯も集団的虐殺犯を取り扱っていないと証言した<ref name=saisin/><ref name=huji>[[冨士信夫]]『「南京大虐殺」はこうして作られた――東京裁判の欺瞞』pp148-201.</ref>。
*当時情報収集を主務としていた中支那方面軍参謀の中山寧人は、婦女子への暴行や掠奪は小規模なものがあったが、市民への大規模虐殺は絶対にないと宣誓供述書で証言<ref name=huji/><ref>阿羅健一『謎解き「南京事件」』{{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref><ref name=saisin/>。
*中澤三夫第16師団参謀長は、組織的集団的掠奪や強姦はなかったし、掠奪命令や黙認したこともない。散発的な風紀犯はあったが処罰されている。また、南京の市民からは戦場での掠奪や破壊は大部分が退却する中国軍と、それに続いて侵入する[[貧困|窮民]]の常套手段であると直接聞いた、と証言<ref name=saisin/>。
 
;被告の陳述
{{要検証範囲|[[被告]]の[[松井石根]]元[[中支那派遣軍]]司令官は、検察側の主張するような大規模虐殺は終戦後の米軍放送によって初めて知ったもので、そのような事実は断じてない、一部若年将兵の暴行があったが即刻処罰しているし、また戦乱に乗じて中国兵や一部不逞の民衆が暴行掠奪を行ったものも少なくなかったので全てを日本軍の罪行とすることは事実に反する、と陳述した<ref name=huji>[[冨士信夫]]『「南京大虐殺」はこうして作られた――東京裁判の欺瞞』pp148-201.</ref>。|date=2023年11月}}
 
==== 判決 ====
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== 名称の種類と変遷 ==
{{Main2|論争史|南京事件論争史}}
南京事件については、「南京大虐殺(ナンキンだいぎゃくさつ)<ref>{{Cite news|title=南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰|newspaper=[[BBC]]|date=2019-09-02|url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-49547357|access-date=2022-10-17|author=ローレンス・ピーター}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b164335.htm |title=衆議院議員河村たかし君提出いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問に対する答弁書 |access-date=2022-10-17 |publisher=[[衆議院]] |date=2006-06-22}}</ref><ref>{{Cite news|title=「日本国紀」読者こそ読んでほしい 「南京大虐殺はウソ」論を検証|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2022-03-06|url=https://mainichi.jp/articles/20220304/k00/00m/040/434000c|access-date=2022-10-17|author=吉井理記}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/198/touh/t198059.htm |title=参議院議員小西洋之君提出いわゆるホロコースト及び南京大虐殺に関する質問に対する答弁書 |access-date=2022-10-17 |publisher=[[参議院]] |date=2019-05-28}}</ref><ref>[https://web.archive.org/web/20220721024650/https://www.jcp.or.jp/akahata/aik15/2015-12-15/2015121507_02_1.html/ 現地の式典に1万人/中国 「南京虐殺事件」「南京大虐殺から78年] し事件」「南京残虐事件(ナンキンざぎゃくじけ赤旗 2015年12月15日</ref>「南京暴行事件(ナンキンぼうこうじけん)」「南京暴事件(ナンキンだいぼうぎゃくさつじけん)」「南京アトロシティー<ref>[https://web.archive.org/web/20141213023040/https://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/家永三郎『新日本史』(三省堂、1962年{{要ページ番号|date=2014-12-13/2014121304_01_1.html年9月}})や洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社、1967年{{要ページ番号|date=2014年9月}})</ ref>」「南京大殺から77年/国際法投げ捨てた事件<ref>洞富雄編『本軍の蛮行] しんぶん赤旗中戦争 南京大残虐事件資料集』青木書店、1985年{{要ページ番号|date=2014年12913日}}</ref>」など、多様な表記と呼称がある。
「南京虐殺事件(ナンキンぎゃくさつじけん)<ref>[https://web.archive.org/web/20221031053444/https://www.jcp.or.jp/akahata/aik09/2010-02-01/2010020102_01_1.html/ “旧日本軍、南京で虐殺”/日中歴史研究 犠牲者数は両論併記] しんぶん赤旗 2010年2月1日</ref>」「南京残虐事件(ナンキンざんぎゃくじけん)」「南京暴虐事件(ナンキンぼうぎゃくじけん)」「南京暴行事件(ナンキンぼうこうじけん)」「南京アトロシティー<ref>家永三郎『新日本史』(三省堂、1962年{{要ページ番号|date=2014年9月}})や洞富雄『近代戦史の謎』(人物往来社、1967年{{要ページ番号|date=2014年9月}})</ref>」「南京大残虐事件<ref>洞富雄編『日中戦争 南京残虐事件資料集』青木書店、1985年{{要ページ番号|date=2014年9月}}</ref>」など、多様な表記と呼称がある。
 
なお、[[1913年]]清朝復活を企図した[[張勲 (清末民初)|張勲]]による[[第二革命]]での南京事件が「南京虐殺事件」と当時報道されている<ref name=ji1913>時事新報 1913年(大正2)9月6日「南京虐殺事件」,神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(14-079)</ref>。また、1927年の南京で中国国民軍が日本人など外国人に暴虐行為を加えた事件は「南京事件(the Nanking Affairs)」<ref>昭和2年外務省公表集8号(1940年外務省情報文化局刊、国会図書館デジタルライブラリー所蔵),p.5.「南京事件に関する日英米仏伊の対支同文通牒」では「国民軍が日本国民に加へたる暴虐行為」</ref>や「南京汚辱事件」とも表記された<ref>中支被難者聯合会 編『南京漢口事件真相 : 揚子江流域邦人遭難実記』岡田日栄堂,昭和2年。p39</ref>。
 
また1927年の南京で中国国民軍が日本人など外国人に暴虐行為を加えた事件は「南京事件(the Nanking Affairs)」<ref>昭和2年外務省公表集8号(1940年外務省情報文化局刊、国会図書館デジタルライブラリー所蔵),p.5.「南京事件に関する日英米仏伊の対支同文通牒」では「国民軍が日本国民に加へたる暴虐行為」</ref>や「南京汚辱事件」とも表記された<ref>中支被難者聯合会 編『南京漢口事件真相 : 揚子江流域邦人遭難実記』岡田日栄堂,昭和2年。p39</ref>。
 
=== 東京裁判 ===
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* 近年の教科書表記では、[[山川出版社]]と[[東京書籍]]が「南京事件」<ref>石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦ほか『詳説日本史』山川出版社、2004年(高等学校地理歴史科用、2002年文部科学省検定済)p.330</ref><ref>東京書籍2006年p.188</ref>、帝国書院が「南京大虐殺」<ref>帝国書院2006年{{要ページ番号|date=2014年9月}}</ref>、清水書院が「南京大虐殺事件」<ref>清水書院2006年{{要ページ番号|date=2014年9月}}</ref>、[[山川出版社]](『詳説世界史』)と日本文教出版が「南京虐殺事件」<ref>江上波夫・山本達郎・林健太郎・成瀬治ほか『詳説世界史・改訂版』山川出版社、2001年(高等学校地理歴史科用、1997年文部科学省検定済)p.310</ref><ref>日本文教出版2006年{{要ページ番号|date=2014年9月}}</ref>と表記している。なお、小中学校の歴史教科書においては「南京事件」が主に使用されている。また、東京書籍のみが補助的に「南京大虐殺」を使用している。
* 2018年、[[産経新聞]]は「高大連携歴史教育研究会」が精選した用語案において、世界史で「南京事件」、日本史で「南京大虐殺」などと異なる呼称を用いていることに対して研究者らから疑問視する声が出ていると報じた<ref>{{Cite web | url = https://www.sankei.com/article/20180219-VAGXNSZ32BLMTNNIOBUVSS6IQI/ | title = 「南京大虐殺」「南京事件」、日本史と世界史で歴史用語にばらつき 教科書精選案に疑問視の声 | website = 産経ニュース | publisher = [[産経デジタル]] 2018-02-19 | accessdate = 2022-12-28 }}</ref>。また、同記事では、日本史の同用語案に自虐的傾向があるとするほか、「南京大虐殺」は日本軍の残虐性をことさら強調した用語であるとも報じている。
* 「南京事件はなかった」と主張する[[新しい歴史教科書をつくる会]]は、同会が執筆した(発行は[[自由社]])中学校歴史教科書(平成27年検定合格)で、唯一、事件について全く記述しなかったと述べている<ref>{{Cite web|url=https://tsukurukai.com/hikaku/history4.html |title=虚構の「南京事件」が消えた自由社教科書(「史」110号〈平成27年5月号〉)|website=[[新しい歴史教科書をつくる会]]|accessdate=2023-03-13}}</ref>。
 
=== 日本国外における表記 ===
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== 近年の動向 ==
産経新聞は、2021年3月に[[阿羅健一]]が外務省に南京事件の根拠となった資料の公開を求めたところ、2022年1月に「該当文書を確認できなかったため、不開示(不存在)とした」との通知があったと述べていると報じた{{Efn|産経新聞の報道によると、阿羅は「明確な根拠がないまま政府見解がつくられた点は、慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話と酷似している」とも述べている<ref name=fukaiji></ref>。}}<ref name=fukaiji>[https://web.archive.org/web/20221214080934/https://www.sankei.com/article/20221213-ZUENY7ZAIJKRVIWCIUZYGVG73M/ 近現代史研究家 阿羅健一氏 根拠なき政府見解は撤回を]産経新聞</ref>。2023年4月3日の[[参議院]][[決算委員会]]において、南京事件における根拠となる文書は外務省内には存在しない、という初の国会答弁が出た<ref>[https://webkokkai.archivendl.org/web/20230417044846/https://wwwgo.sankei.comjp/article/20230417-M3OZKP25EZFJTBICVTUQWQS6H4#/detail?outputTypeminId=theme_monthly-seiron121114103X00220230403 根拠がないのに外務省HPが認める南京事件第211回国会 参議院 阿羅健一決算委員会 第2号 令和5年4月3日 045 和田政宗]産経新聞 月刊正論オンライン国会会議録検索システム</ref>。
 
2023年4月3日の[[参議院]][[決算委員会]]において、南京事件における根拠となる文書は外務省内には存在しない、という初の国会答弁が出た<ref>[https://kokkai.ndl.go.jp/#/detail?minId=121114103X00220230403 第211回国会 参議院 決算委員会 第2号 令和5年4月3日 045 和田政宗]国会会議録検索システム</ref>。質問者の[[和田政宗]]は、答弁にあった『戦史叢書 支那事変陸軍作戦』で一般住民を日本軍が意図的に殺害したとの明確な記述はこれらの資料からは得られず、「南京付近の死体は戦闘行動の結果によるものが大部分であり、計画的組織的な虐殺とはいいがたい」と明記されている。と述べている<ref>[https://web.archive.org/web/20230429222950/https://hanada-plus.jp/articles/1259 国会史上初の答弁! 南京事件「省内に根拠となる文書は存在しない」と林外相|和田政宗]Hanadaプラス</ref>。
 
== 歴史上の「南京大虐殺」 ==
{{内容過剰|date=2019年3月| Wikipedia:過剰な内容の整理|section=1}}
[[松本健一]]は、中国では「南京大虐殺」(南京大屠殺)は一つの[[固有名詞]]であり、「歴史的に定着している言葉」であるという<ref name=hamahi>秦郁彦、東中野修道、松本健一「決定版「南京事件」最新報告は「捕虜処断」をどう見るか」『諸君!』 2001年2月号,pp128-144.</ref>。また[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]によれば、中国の戦争には「屠城」という伝統があった<ref name=kobungya/>。
 
歴史上の「南京大虐殺」には以下のようなものがある。
#[[王敦の乱]](322年 - 324年)<ref name=kobungya/>
#[[侯景|侯景の乱]]([[549年]])<ref name=hamahi/>。[[東魏]]の[[侯景]]は[[梁 (南朝)|梁]]の[[蕭衍|武帝]]の南北朝時代に、南京(当時、[[建康 (都城)|建康]])を包囲し、陥落後「大虐殺」を行う<ref name=hamahi/><ref>侯景の乱については[[司馬光]]『[[資治通鑑]]』梁紀巻161-巻164。[[梁書]]本紀武帝。[[南史]]本紀第7 武帝下。吉川忠夫 『侯景の乱始末記』中公新書,1974年。竹田龍兒「侯景の乱についての一考察」三田史学会,史学 Vol.29, No.3 (1956. 12) {{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>。
#[[太平天国の乱]]での南京大虐殺([[1853年]])。[[キリスト教]]を「拝上帝教」と解釈し、漢民族国家の再興を目指した[[洪秀全]]は南京占領時に、[[清国]]兵([[満州族]]兵)をほぼ皆殺しにし、満州族の婦女子も焼殺して万単位の虐殺が行われた<ref name=hamahi/>。14年間の乱の犠牲者総数は2000万人を超える。
#[[天京事変]]での南京大虐殺([[1856年]])<ref name=hamahi/>。太平天国軍の内紛([[天京事変]])で洪秀全が[[楊秀清]]軍を「大屠殺」した<ref name=hamahi/>。
#[[天京攻防戦]]([[1864年]]) - 南京(当時、天京)における清軍([[曽国荃]]指揮)・[[湘軍]]と[[太平天国]]軍との戦争<ref name=s/><ref name=sek/><ref name=kobungya/>。[[湘軍]]の[[趙烈文]]は、老人や2、3歳の幼児も虐殺され、40歳以下の若い婦女は拉致され、20万 - 30万の犠牲者が生じたと記録している<ref name=s>趙烈文『能静居士日記』、郭廷以([[中央研究院]]近代史研究所所長)「近代中國史綱」(中文大學出版社1979、香港中文大學2008,pp169-170で引用,蘇瑞鏘「[http://b5.secretchina.com/news/07/02/27/185710.html?%E8%B6%85%E8%B6%8A%E2%80%9C%E5%9C%8B%E6%81%A5%E2%80%9D%E2%80%95%E2%80%95%E5%BE%9E%E2%80%9C%E5%8D%97%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%B1%A0%E6%AE%BA%E2%80%9D%E8%AB%87%E8%B5%B7 超越“國恥”――從“南京大屠殺”談起]」[[看中国]]2007-02-27 04:53。蘇瑞鏘 《彰中人》187期,國立彰化高中,2001年</ref><ref name=sek>石平『中国大虐殺史―中国人はなぜ人殺しが好きなのか』2007年。[[天京攻防戦]]についてはp.182</ref>。蘇瑞鏘は「湘軍版南京大虐殺」であるとし<ref name=s/>、また[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]は、天京攻防戦での掠奪や放火の記録は、中国政府の主張する「日本軍による大虐殺」と類似していると指摘している{{refnest|group="注釈"|黄文雄は「中国側の主張している内容は、中国歴代王朝が行ってきた虐殺の歴史をただ復唱しているだけなんです。中国では長年にわたり、王朝が交代するたびに、[[北京]]、[[西安]]、[[開封]]、[[揚州]]と大虐殺を繰り返してきました。南京では、[[東晋]]の時代に[[王敦]]という武将が行っています。それ以降も大虐殺を繰り返し、近代最大のものは、[[曽国藩]]の弟で[[曽国荃]]という武将によるものです。三力月ぐらい略奪したり、火を付けたりしている。非常に詳しい記録が残っているのですが、それが「南京大虐殺」における今の政府の発表とそっくりなのです。」と述べている<ref name=kobungya>[[渡部昇一]]・[[黄文雄 (評論家)|黄文雄]]「中韓「反日」勢力なら論破できる」[[諸君!]]2004年(平成16年)8月号,pp144-152.</ref>。}}。
#[[第二革命]]での南京大虐殺 ([[1913年]])<ref name=hamahi/>。[[辛亥革命]]の後に行われた清朝復活を企図した[[張勲 (清末民初)|張勲]]による[[第二革命]]への弾圧では、国民党兵が数千殺され、日本人3人も間違えられて殺害された<ref name=hamahi/>。[[時事新報]]は当時「南京虐殺事件」と報じた<ref name=ji1913>時事新報 1913年(大正2)9月6日「南京虐殺事件」,神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(14-079)</ref>。当時、[[北一輝]]が南京を訪問し、虐殺の実態を『支那革命外史』で記す<ref name=hamahi/>。[[曹汝霖]]は張勲のことを「あの南京大虐殺をやった男」と呼んだ<ref name=hamahi/>。
#1927年に蔣介石軍が南京占領後に外国[[領事館]]や市民に暴行・強姦を行った[[南京事件 (1927年)|南京事件]]<ref name=hamahi/>。
 
この他、南京以外での虐殺で南京大虐殺と記録としてなどの関連性が指摘されているものに、[[1645年]]の[[揚州大虐殺]]がある<ref name=kobungya/><ref name=sek/><ref>[[田中秀雄]]「[http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu4_tanaka.html プロパガンダとしての南京事件]」</ref>。揚州大虐殺の犠牲者は80万人といわれる{{refnest|group="注釈"|王秀楚著『揚州十日記』に「初二日,傳府道州縣已置官吏,執安民牌遍諭百姓,毋得驚懼。又諭各寺院僧人焚化積屍;而寺院中藏匿婦女亦復不少,亦有驚餓死者,查焚屍簿載其數,前後 約計八十萬餘,其落井投河,閉戶自焚,及深入自縊者不與焉。」と記録<ref>[[宮崎湖処子|湖処子 宮崎八百吉]]訳『揚州十日記・嘉定屠城紀略』広文館、大正12。書誌ID(NDL-OPAC):000000586412 国会図書館。</ref>。}}。
 
== 南京事件を扱った作品 ==