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{{暴力的}}
{{観点|date=2019年3月}}
'''南京事件'''(ナンキンじけん)は、[[日中戦争]]初頭の[[1937年]]([[昭和]]12年/[[民国紀元|民国]]26年)12月、[[日本軍|大日本帝国軍]]が[[中華民国]]の[[南京市]]を[[占領]]した際、約2カ月にわたって
日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。}}</ref>、[[略奪]]<ref name=":1"></ref>、[[強姦]]、[[放火]]した
[[第二次世界大戦]]の[[終戦]]後、この事件の存在は
{{Infobox 民間人の攻撃
| 名称 = 南京事件(南京大虐殺)
| 画像 = [[File:Nanking bodies 1937.jpg|border|300px]]
| 脚注 = [[秦淮河]]のほとりで市民の遺体とともに映る日本兵
| 場所 = [[南京市]]
| 地図 =
| 緯度度 = |緯度分 = |緯度秒 = |N(北緯)及びS(南緯) =
| 経度度 = |経度分 = |経度秒 = |E(東経)及びW(西経) =
| 日付 = 1937年12月13日から6週間
| 時間 =
| 開始時刻 =
| 終了時刻 =
| 時間帯 =
| 標的 =
| 手段 = 大量殺人、強姦、略奪、放火
| 兵器 =
| 武器・凶器 =
| 死亡 = 数千人から20万人以上
| 負傷 =
| 行方不明 =
| 被害者 =
| 損害 =
| 犯人 =
| 容疑 =
| 動機 =
| 攻撃側人数 =
| 対処 =
}}
国際的には南京事件は事実とされている<ref name="UNESCO DOCS">{{cite web|url = https://en.unesco.org/sites/default/files/china_nanjing_en.pdf|title = International Memory of the World Register Documents of Nanjing Massacre|website = UNESCO|access-date = 23 March 2022}}</ref>一方、事件の真相には不明な点があり各史料に食い違いが多い<ref name="長谷川2009-866">[[長谷川啓之]]「南京」『現代アジア事典』文眞堂、2009年7月20日 第1版第1刷発行、ISBN 978-4-8309-4649-3、866頁。</ref>ため、事件の規模、虐殺の存否、[[戦時国際法]]違反か否かをめぐる[[南京事件論争|論争]]や、犠牲者数をめぐる[[南京事件の被害者数|論争]]が続いている。ほとんどの歴史学者は、日本軍によって比較的短期間に大量の中国人が殺害・強姦されたことに同意している<ref name=Askew>{{cite journal |journal=Electronic Journal of Contemporary Japanese Studies |date=2002-04-04 |title=The Nanjing Incident - Recent Research and Trends |first=David |last=Askew |access-date=2023-05-14 |url=http://www.japanesestudies.org.uk/articles/Askew.html}}</ref>一方、犠牲者数の推定は難しく数千人から20万人以上まで様々である<ref name=Askew />。[[日本国政府]]は「非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないが、被害者の具体的な人数は諸説あり認定できない」と主張している<ref name=":1" />。
なお、歴史上「南京事件」と称される出来事は[[1913年]]9月([[南京事件 (1913年)|1913年の南京事件]])、[[1927年]]3月([[南京事件 (1927年)|1927年の南京事件]])にも存在したが、単に「南京事件」というと一般には1937年の本事件を指す<ref>原 (2002)、78~79頁。</ref>。
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=== 総人口 ===
南京の市街地の人口は、[[日中戦争]]以前は100万人以上とされるが、上海事変以来の爆撃や、[[南京戦|南京攻撃]]が近づいて中国政府首脳が重慶に移転したり、富裕層などが[[疎開]]したため、元からの住民の人口はかなり減少した<ref name=畝元1984-10/>。[[ジョン・ラーベ|ラーベ]]は11月28日の日記に「警察庁長から20万人と聞いた」、12月6日の日記に「約80万人の恵まれた市民が逃れた」と聞き伝えを記しており、[[ルイス・S・C・スマイス|スマイス]]の報告書には、陥落当時20万~25万人であったと記されている<ref name="原2003-37">[[原剛]]「南京大虐殺はあったのか」[[秦郁彦]]編『昭和史20の争点 日本人の常識』文藝春秋、2003年10月10日 第1刷、ISBN 4-16-365340-6、37頁。</ref>。ただし、日本軍の急進撃により、住民の脱出の試みは短期間に集中することになり、揚子江を渡る船便の不足や運賃の高騰により、脱出できずに取り残された人も実際にはかなりいたとみられる。また、夏ごろからの爆撃で疎開した者の中には初めから南京城市郊外に疎開していた者、日本軍の進攻が予想される地域から南京を目指してきた難民が多数あり、周辺地域の人口はかなり増えていたことも考えられる。実際に、南京城市外にも多数の難民キャンプが出来ている。
== 犠牲者 ==
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==== 南京安全区 ====
{{see also|南京安全区国際委員会}}
{{仮リンク|南京安全区|en|Nanking Safety Zone}}とは、[[南京戦]]前の11月、[[ジョン・ラーベ]]及びアメリカ人宣教師たち(プラウマー・ミルズ、[[ジョン・マギー]]、[[マイナー・シール・ベイツ]]や女性宣教師[[ミニー・ヴォートリン]]などを中心とする約15名)によって、戦災に巻き込まれた市民を救済するという名目で組織された[[南京安全区国際委員会]](別称:南京難民区国際委員会)が、南京城市内に設定した地域である。上海安全区とは異なり中立性に疑義があったため日本からは承認されず、非公式なものであった<ref>‘The Nanjing Safety Zone Unapproved’ by [[:no:Marcia R. Ristaino|Marcia Ristaino]] "Jacquinot Safe Zone: Wartime Refugees In Shanghai" P81</ref>。
安全区内の人口は南京陥落直後は約20万人(諸説あり)との推測値があり、南京城内の南京安全区以外の区域は住民が少ない状況となった<ref>「南京難民区の百日 虐殺を見た外国人」 [[笠原十九司]] [[岩波現代文庫]] [[岩波書店]]78-82頁</ref>。
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{{Main2|議論|南京事件論争#当時の国際報道についての議論}}
当時、南京には欧米人記者5名が駐在しており、日本軍占領後に船で上海に移動したが、5名の記者達は、一部は、ベイツ宣教師から渡された声明<ref name=":0">{{Cite book|author=|title=“Moreover, the book<What War Means> uses a statement which I prepared on the 15th of December to be utilized by the various correspondents leaving Nanking on that date.” (Circular letter to friends, Bates, April 12, 1938)|date=|year=|accessdate=|publisher=}}{{要ページ番号|date=2019年4月}}</ref>をそのまま、一部は声明<ref name=":0" />にアレンジまたは自分の体験を加え、欧米で南京事件を報道した<ref>Suping Lu,They Were in Nanjing: The Nanjing Massacre Witnessed by American and British Nationals,2004,Hong Kong University Press
p19-42.</ref>。そして、アメリカの『[[シカゴ・デイリーニューズ(英語版]])』(12月15日付)<ref>「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」 464-468頁</ref>や『[[ニューヨーク・タイムズ]]』(12月18日、19日付)<ref>南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」 417-422頁 422-425頁。[[#秦 (2007)|秦 (2007)]]、1-7頁にも訳文等あり。</ref>、イギリスの『[[タイムズ]](ロンドン・タイムズ)』(12月20日)<ref>記事アーカイブあり。日本語訳「南京事件資料集 1アメリカ関係資料編」より503-505頁</ref>のような有力紙の記事、ロイター通信社による新聞記事によって、事件初期の殺人、傷害、強姦、略奪などの犯罪行為(Nanjing Atrocities)が日本軍によって行われたとして伝えられて報道された<ref>英文記事資料あり [http://www.readex.com/readex-report/nanjing-atrocities-reported-u-s-newspapers-1937-38 The Nanjing Atrocities Reported in the U. S. Newspapers, 1937-38]</ref>。1938年以降も新聞記事や雑誌(アメリカ雑誌「[[ライフ (雑誌)|ライフ]]」誌の特集(1月、5月)で報道される<ref>1月10日号「ライフ」P.50 「The Camera overseas The Japanese Conqueror brings A Week of Hell to China」、5月16日号「ライフ」P.13「These Atrocities Explain Jap Defeat」
=== 事件発生後の外国人の反応 ===
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;弁護側証人
{{Main2|弁護側反証|極東国際軍事裁判#弁護側反証}}
;被告の陳述
{{要検証範囲|[[被告]]の[[松井石根]]元[[中支那派遣軍]]司令官は、検察側の主張するような大規模虐殺は終戦後の米軍放送によって初めて知ったもので、そのような事実は断じてない、一部若年将兵の暴行があったが即刻処罰しているし、また戦乱に乗じて中国兵や一部不逞の民衆が暴行掠奪を行ったものも少なくなかったので全てを日本軍の罪行とすることは事実に反する、と陳述した<ref name=huji>[[冨士信夫]]『「南京大虐殺」はこうして作られた――東京裁判の欺瞞』pp148-201.</ref>。|date=2023年11月}}
==== 判決 ====
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== 名称の種類と変遷 ==
{{Main2|論争史|南京事件論争史}}
南京事件については、「南京大虐殺(ナンキンだいぎゃくさつ)<ref>{{Cite news|title=南京大虐殺で、多くの中国人救ったデンマーク人 没後36年目の顕彰|newspaper=[[BBC]]|date=2019-09-02|url=https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-49547357|access-date=2022-10-17|author=ローレンス・ピーター}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b164335.htm |title=衆議院議員河村たかし君提出いわゆる南京大虐殺の再検証に関する質問に対する答弁書 |access-date=2022-10-17 |publisher=[[衆議院]] |date=2006-06-22}}</ref><ref>{{Cite news|title=「日本国紀」読者こそ読んでほしい 「南京大虐殺はウソ」論を検証|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2022-03-06|url=https://mainichi.jp/articles/20220304/k00/00m/040/434000c|access-date=2022-10-17|author=吉井理記}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/198/touh/t198059.htm |title=参議院議員小西洋之君提出いわゆるホロコースト及び南京大虐殺に関する質問に対する答弁書 |access-date=2022-10-17 |publisher=[[参議院]] |date=2019-05-28}}</ref>
なお、[[1913年]]清朝復活を企図した[[張勲 (清末民初)|張勲]]による[[第二革命]]での南京事件が「南京虐殺事件」と当時報道されている<ref name=ji1913>時事新報 1913年(大正2)9月6日「南京虐殺事件」,神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 外交(14-079)</ref>。また、1927年の南京で中国国民軍が日本人など外国人に暴虐行為を加えた事件は「南京事件(the Nanking Affairs)」<ref>昭和2年外務省公表集8号(1940年外務省情報文化局刊、国会図書館デジタルライブラリー所蔵),p.5.「南京事件に関する日英米仏伊の対支同文通牒」では「国民軍が日本国民に加へたる暴虐行為」</ref>や「南京汚辱事件」とも表記された<ref>中支被難者聯合会 編『南京漢口事件真相 : 揚子江流域邦人遭難実記』岡田日栄堂,昭和2年。p39</ref>。
=== 東京裁判 ===
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* 近年の教科書表記では、[[山川出版社]]と[[東京書籍]]が「南京事件」<ref>石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦ほか『詳説日本史』山川出版社、2004年(高等学校地理歴史科用、2002年文部科学省検定済)p.330</ref><ref>東京書籍2006年p.188</ref>、帝国書院が「南京大虐殺」<ref>帝国書院2006年{{要ページ番号|date=2014年9月}}</ref>、清水書院が「南京大虐殺事件」<ref>清水書院2006年{{要ページ番号|date=2014年9月}}</ref>、[[山川出版社]](『詳説世界史』)と日本文教出版が「南京虐殺事件」<ref>江上波夫・山本達郎・林健太郎・成瀬治ほか『詳説世界史・改訂版』山川出版社、2001年(高等学校地理歴史科用、1997年文部科学省検定済)p.310</ref><ref>日本文教出版2006年{{要ページ番号|date=2014年9月}}</ref>と表記している。なお、小中学校の歴史教科書においては「南京事件」が主に使用されている。また、東京書籍のみが補助的に「南京大虐殺」を使用している。
* 2018年、[[産経新聞]]は「高大連携歴史教育研究会」が精選した用語案において、世界史で「南京事件」、日本史で「南京大虐殺」などと異なる呼称を用いていることに対して研究者らから疑問視する声が出ていると報じた<ref>{{Cite web | url = https://www.sankei.com/article/20180219-VAGXNSZ32BLMTNNIOBUVSS6IQI/ | title = 「南京大虐殺」「南京事件」、日本史と世界史で歴史用語にばらつき 教科書精選案に疑問視の声 | website = 産経ニュース | publisher = [[産経デジタル]] 2018-02-19 | accessdate = 2022-12-28 }}</ref>。また、同記事では、日本史の同用語案に自虐的傾向があるとするほか、「南京大虐殺」は日本軍の残虐性をことさら強調した用語であるとも報じている。
=== 日本国外における表記 ===
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== 近年の動向 ==
産経新聞は、2021年3月に[[阿羅健一]]が外務省に南京事件の根拠となった資料の公開を求めたところ、2022年1月に「該当文書を確認できなかったため、不開示(不存在)とした」との通知があったと述べていると報じた
== 南京事件を扱った作品 ==
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