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安土のセミナリヨは純和風建築三階建てで、客をもてなすための茶室が付属していた。信長は屋根の瓦に安土城と同じ青い瓦を使うよう命じ、イエズス会員たちはこれに感謝した。責任者となったグネッキ・ソルディ・オルガンティノ神父は入学者をあつめるため、[[高山右近]]に依頼。彼はキリシタンである家臣の子弟八人を安土に送った。オルガンティノ神父が彼らにセミナリヨの目的について説明し、希望者を募ると彼らはそれに答えて入学を願った。その中には後に長崎で殉教する[[パウロ三木]]や[[元和の大殉教]]で死んだアントニオ三箇がいた。
 
安土では30人ほどの学生が住み込みで学んでいたが、[[本能寺の変]]の後で[[安土城]]と市街が焼けると、脱出せざるをえなくなった。その後、[[高槻]]に移転したが、[[1587年]]の[[豊臣秀吉]]の禁教令によって九州移転を余儀なくされた。セミナリヨは[[長崎]]、[[有馬]]、[[加津佐町|加津佐]]、[[天草]]などを転々としたが、[[1614年]]の[[徳川家康]]の禁教令によって閉鎖された。生徒たちのあるものは潜伏し、あるものは勉学を続けるため[[マカオ]]や[[マニラ]]に逃れた。
 
セミナリヨで学び、後にイエズス会員となった多くのものも厳しい迫害の中で殉教や国外追放という運命をたどった。