「セントビンセント・グレナディーンの歴史」の版間の差分
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from en:History of Saint Vincent and the Grenadines 15:05, 10 December 2006 UTC author Olivier, Sesel, Roisterer, John Hill, Lofty |
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18世紀まで、先住民の[[カリブ族]]は[[セントビンセント島|セントビンセント]]の[[ヨーロッパ]]人による開拓を積極的に防いだ。難破、または逃亡によって、[[セントルシア]]や[[グレナダ]]からセントビンセントに避難してきた[[アフリカ]]人[[奴隷]]は、カリブ族と結婚をし、その子孫は「ブラックカリブ」として知られる。[[1719年]]に始まり、[[フランス]]人入植者たちはアフリカ人奴隷を使って、[[コーヒー]]、[[タバコ]]、[[藍]]、[[綿]]、[[砂糖]]の[[プランテーション]]を耕作した。セントビンセントは[[1763年]]の[[パリ条約 (1763年)|パリ条約]]で[[イギリス]]に割譲された。[[1779年]]にまたフランスの支配に戻り、[[1783年]の[[パリ条約 (1783年)|パリ条約]]の元でイギリスの支配下になる。イギリスとブラックカリブの間の紛争は、アバクロンビー将軍が、フランスの急進派ビクトー・ヒューグスが誘発した反乱を潰す[[1796年]]まで続いた。結局、5000人以上のブラックカリブは、[[中米]]の[[ベリーズ]]や[[ホンデュラス]]沖の島、[[ロアタン島]](Roatán)に強制送還された。
[[1834年]]に奴隷制度は廃止されたことによるプランテーションの労働力不足は、1840年代にポルトガル移民、[[1860年]]代には[[インド]]系移民を引き付けた。以前の奴隷も移民労働者も、環境は厳しく、落ち込んだ世界の砂糖価格は経済を19世紀の変わり目まで停滞させた。
[[1763年]]の独立まで、セントビンセントはイギリスの下でさまざまな植民地の状態をくぐり抜けた。[[1776年]]に議会が創設され、[[1877年]]には直轄植民地政府を設置、[[1925年]]に立法議会、[[1951年]]に普通選挙権が与えられた。
この期間の間、英国は、セントビンセントを他の[[ウィンドワード諸島]]の統一された政権を通して地域を治めるためのいくつかの企てに失敗している。中でも[[1962年]]に崩壊した[[西インド諸島連邦]]は有名だ。[[1969年]]10月27日、セントビンセントは完全自治権のある一州としての立場を与えられた。1979年の国民投票では、セントビンセントおよびグレナディーン諸島はウィンドワード諸島で最後の独立を果たすことを決定し、同年10月27日に独立を祝った。
20世紀の間、天災は国を苦しめた。[[1902年]]、セントビンセントにある[[火山]][[スフリエール
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