ファーティマ・ビント・ムーサー

シーア派イマームの娘で女性聖人。

ファーティマ・ビント・ムーサーアラビア語: فَاطِمَة بِنْت مُوسَىٰ‎, ラテン文字転写: Fāṭima bint Mūsā)、西暦790年ごろ生、816年ごろ歿)は、ムーサー・カーゼム(799年歿)の娘でありアリー・レザー(818年歿)の妹である人物。ファーテメ・マアスーメアラビア語: فَاطِمَة ٱلْمَعْصُومَة‎, ラテン文字転写: Fātima al-Maʿṣūma)の名でよく知られる。マディーナで生まれ育ち、816年ごろにメルヴにいる兄に会いにマディーナからメルヴへ向かう途中、イランのゴムで客死した。その信仰心の強さに心を打たれたゴムの十二イマーム派の人々は、彼女の墓廟を建てた。ゴムのファーテメ・マアスーメ廟は十二イマーム派シーアの人々にとって重要な参詣地である。

ファーテメ・マアスーメ廟英語版(イラン、ゴム

生涯 編集

ファーティマが生まれたのは西暦790年ごろ、マディーナにおいてである。父のムーサー・カーゼムは十二イマーム派シーアにおいて七代目イマームとされる人物である[1]。 父はアッバース朝カリフハールーン・ラシード(在位786年-809年)治世下の799年に獄死したが、死因はおそらく毒殺とみられる[2]。息子のアリー・レザーのイマーム位継承は、妹のファーティマを含む、父の支持者の大多数に受け入れられた[3]。アリー・レザーは816年にアッバース朝カリフ・マアムーン(在位813年-833年)によりホラーサーン地方に召喚され、817年に次期カリフの指名を受ける[4]。突然の指名の理由は頻発するシーア派の反乱の鎮静化を図るためであろう[5]。ファーティマは兄に合流するため、マディーナを発ってメルヴへ向かったが、旅の途中、イランのサーヴェ英語版で病気にかかった[1]。ファーティマはサーヴェ近隣の町でシーア派の多い町であったゴムへの移送を願い、そこで死んだ[1]。おそらく17日後ではないかと考えられている[6]。一説によれば、ムーサー・イブン・ハズラジ・アシュアリーという名の地元のシーア派人士が彼女の移送を申し出て、死去までの数日間の世話をしたという[6]。基礎史料になるハサン・イブン・ムハンマド・クンミーが988年に著した歴史書『ターリーヘ・ゴム(ゴムの歴史)』 には一切の言及がないが[6]、ファーティマが毒殺されたとする説もある[6][7]。ファーティマの没年については816年とする説[1][6]、817年とする説がある[8]。何歳で亡くなったかは不明であるが、父のムーサーが795年から獄中にあり799年に亡くなったことを考慮すると、少なくとも21歳にはなっていたと考えられる[6]

十二イマーム派から見たファーティマ 編集

ファーティマは「不可謬」あるいは「無謬」を意味する「マアスーマ」アラビア語: ٱلْمَعْصُومَة‎ という呼び名で知られている[1]。彼女がいつ、いかなる経緯でこのように呼ばれるようになったかは、歴史的資料がないため不明であるが、黒羊朝のジャハーン・シャー英語版(在位1438年-1467年)の命令書の中で使用例があるため、遅くとも15世紀にはこの名で知られていたとみられる[6]。ファーティマは「女性の美徳を体現した存在」として崇敬され[9]、信仰心が強く宗教的学識が深い女性として認識されている[1]。また、預言者ムハンマドの娘ファーティマ・ザフラー(632年歿)と比較されることも多い[1]。審判の日の執り成し(シャファーア英語版)をする存在、不治の病をいやすといったような奇蹟を起こす聖者として、崇敬を集めている[1]

墓廟 編集

ファーティマはゴムの町の郊外、ムーサー・アシュアリーが所有する地所の一角に葬られた。墓所はのちにワクフとして寄進され、ファーティマが寝泊まりし礼拝した館はモスクになった[6]。ファーティマの霊廟は世代を重ねるごとに発展していった[10][11]ブワイフ朝期(934年-1062年)とセルジューク朝期(1037年-1194年)だけでなく[12]黒羊朝期(1374年-1468年)と白羊朝期(1378年-1503年)にも発展がみられた[13]。21世紀現在の壮麗な宗教施設複合は、大部分がサファヴィー朝期(1501年-1736年)とカージャール朝期(1789年-1925年)に建てられたものである[13]

アリー・レザーやその息子ムハンマド・ジャワード(835年歿)がファーテメ・マアスーメ廟への参詣を勧めるハディースが伝えられている[14]。ファーテメ・マアスーメ廟への参詣を目的として、人々がゴムに集まるようになった[13]。ゴムは8世紀からすでにシーア派の政治活動や学術の中心地であったが[15]、 10世紀に最盛期を迎え、1224年のモンゴル侵攻により破壊されるまで栄えた[16]。14世紀の歴史家ハムドゥッラー・ムスタウフィーは廃墟となったゴムを訪れている[7]。ゴムはサファヴィー朝期に再建される[16]イスマーイール1世(在位1501年-1524年)の娘シャー・ビーグムの命により、1519年に霊廟の大規模な再建がなされた[1]アッバース1世(在位1588年-1629年)による財政支援により、マドラサやフンドゥク(巡礼者用の宿泊施設)が造営された[16][17][1]。アッバース1世の支援は当初こそ部分的であったが、スンナ派を奉じるオスマン帝国が1638年にシーア派イマームの霊廟などシーア派の巡礼地が多数存在する下部メソポタミア(歴史的イラク)の支配を確立すると、その直後から全面的な支援に変化した[16]。法学を研究する学院が1533年に創設された[16]。この学院の学統は、サファヴィー朝期の学者モフセン・フェイズ・カーシャーニー英語版(1680年歿)の名をとって「フェイズィーヤ」 Feyziyya と呼ばれている[16][13]。カージャール朝期ゴムは、王族が暮らすテヘランに近いことが有利に働き、王族による更なる施設の拡張や、王族の墓所の造営がなされた[16]。カージャール朝期の法学者ミールザーイェ・ゴミー英語版(1815年歿)は「ホウゼ」というゼミナール形式でシーアはイスラーム諸学を学ぶ学院の発展に特に貢献した[13]。ゴムの発展はホウゼイェ・エルミーイェ hawza-ye elmiyye という21世紀現在も続く学院の創設からさらに加速した[13][18]。創設者は1921年からゴムに移り住むようになったアブドルキャリーム・ハーエリー・ヤズディー英語版(1937年歿)であり、彼の弟子の中から1979年のイラン・イスラーム革命の指導者ルーホッラー・ホメイニー(1989年歿)が現れた[13]

出典 編集

  1. ^ a b c d e f g h i j Ruffle 2004.
  2. ^ Daftary 2013, p. 59.
  3. ^ Daftary 2013, p. 60.
  4. ^ Daftary 2013, pp. 60–61.
  5. ^ Daftary 2013, pp. 60–1.
  6. ^ a b c d e f g h Sajjadi 2019.
  7. ^ a b Donaldson 1933, p. 258.
  8. ^ Halm 1997, p. 27.
  9. ^ Starkey 2008, p. 532.
  10. ^ Hulmes 2008.
  11. ^ Drechsler 2009.
  12. ^ Starkey 2008.
  13. ^ a b c d e f g Ja'fariyan 2004.
  14. ^ Donaldson 1933, pp. 258–9.
  15. ^ Daftary 2013, p. 61.
  16. ^ a b c d e f g Halm 1997, p. 128.
  17. ^ Donaldson 1933, pp. 259–60.
  18. ^ Halm 1997, pp. 129–30.

参考文献 編集