夏侯 駿(かこう しゅん、生年不詳 - 299年)は、中国三国時代西晋の武将・政治家。長容。父は夏侯威。弟は夏侯荘。妻は司馬亮の娘。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」注『世語』・『晋書』「傅咸伝」「庾旉伝」「周処伝」などに記述がある。

生涯 編集

『世語』によると魏の時代、并州刺史となった。

西晋の武帝司馬炎の時期、豫州大中正となった。夏侯駿は魯国小中正の孔毓を職務怠慢と判断して、孔毓の更迭と曹馥(曹洪の子)の任命を上奏したが、一旬(10日)ほどのちにまた孔毓の再任を上奏した。司徒左長史の傅咸は、小中正の任免は越権行為であるとして夏侯駿の解任を上奏したが、司徒魏舒は夏侯駿と縁戚であったため、傅咸の上奏を聞き入れなかった。傅咸は司馬炎に直訴したが、かえって魏舒によって車騎司馬に左遷された。

後に尚書となった。太康3年(282年)、司馬炎は弟の斉王司馬攸を封国に帰藩させようとした。庾旉・劉暾曹志らは司馬攸の帰藩に反対する上書を行った。激怒した司馬炎は庾旉ら8人を逮捕し、廷尉に送った。廷尉の劉頌は、庾旉らを大不敬の罪状により公開処刑するよう主張した。夏侯駿は処刑に賛同する朱整に「国家は諫言の臣を誅殺しようとしている。官が八座を立てたのは、まさにこの時のためだ」と述べ、一人だけ処刑に反論した。魏舒と下邳王司馬晃(司馬孚の子)らが夏侯駿に同調した結果、議論は紛糾した。7日後に庾旉らの死刑を免じ、官職からの除名をすることで決着した。

元康元年(291年)、恵帝の即位に伴い汝南王司馬亮衛瓘が政務を執ることになった。傅咸は夏侯駿が少府に任命されたことを捉え、またしても「大した功績も無いのに、少府に(司馬亮の)縁戚の長容(夏侯駿の字)を取り立てたのは権力の私物化です」と批判した。しかし、司馬亮は聞き入れなかった。

元康6年(296年)、斉万年が反乱を起こした。討伐軍は征西大将軍の梁王司馬肜を大将として、夏侯駿は安西将軍として従軍した。元将の周処は御史中丞として、かつて司馬肜の不正を取り締まったことがあった。外様の周処を嫌う朝廷の人々は、周処を故意に死なせようと、周処に私怨を抱く司馬肜の配下に意図的に従軍させた。中書令陳準は周処では無く、孟観を先鋒に任命するよう主張したが、容れられなかった。果たして、司馬肜とその意を受けた夏侯駿は、周処に5千の兵で7万の敵に単身突撃させ、周処を敵を利用して殺してしまった。

王隠『晋書』によると、後に夏侯駿は、斉万年を斬ったと上言した[1]。しかし実際は、斉万年は改めて出陣を命じられた孟観が生け捕りにした。戦後、夏侯駿は戦功を偽った罪状で誅殺された[2][3]

脚注 編集

  1. ^ 昭明文選/卷20 - 潘岳『關中詩』注釈より
  2. ^ 文選 詩篇(一)』 川合康三・富永一登・釜谷武志・和田英信・浅見洋三・緑川英樹訳注 岩波文庫 pp.146-147 訳注参照
  3. ^ 潘岳『關中詩』に「好爵既靡、顯戮亦從」とあるのは、正しく戦功を報告した孟観が高官に取り立てられ、戦功を偽った夏侯駿が処刑されたことを意味する。ただし、『關中詩』では孟観にも戦功の誇張があったことが指摘され、しかし(実際に)斉万年を生け捕りにした功績に比べたら比較にならないと謳われている。