高 興(こうこう、: 고흥; コフン、生没年不詳)は、百済中期の博士である[1]375年近仇首王1年)に博士になった[1][2]。彼は百済開国以来、初めての博士であった[1]。高興が初めて文字で書類を記録する術を知って歴史を書き記し始め[1]、百済で最初に歴史書『書記』を書いたが、今は伝わらない[1][2]。彼はまた医薬亀甲による観相術陰陽五行術も能くしたという[2][1]儒家経典に詳しい博士として歴史記録を編纂した人物であること、「高氏」という中国人姓であることなどから、中国楽浪郡帯方郡に出自をもつ百済帰化していた中国人とみられる[3][4][5][6][7][8][9]

高 興
各種表記
ハングル 고흥
漢字 高 興
発音: コ フン
日本語読み: こう こう
文化観光部2000年式
マッキューン=ライシャワー式
Go Heung
Ko Hŭng
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『書記』以外の百済の史書『百済記朝鮮語版』・『百済新撰朝鮮語版』・『百済本記朝鮮語版』なども作ったというが、今は伝わらない[1]

生涯 編集

百済の博士として『書記』を編纂したが、『三国史記』には『古記』を引用して、「古記に曰く、百済は開国以来、いまだ文字で事実を記録することがなかったが、ここに至って博士高興を得て、ようやく『書記』を持つようになった。しかし、高興はかつて別の本には現れないので、どんな人であるのか知りようがないのである」と記録されており[10][11]、出自の詳細は不明である[10]。ただし、高氏という中国系姓氏であること、儒学に造詣が深かったという点を勘案すれば、中国系百済人である可能性が高い。4世紀はじめに高句麗の攻撃により楽浪郡が滅亡すると、楽浪郡の遺民の相当数が百済に亡命したという事実に注目すると、高興は楽浪郡あるいは帯方郡出身の学者であると推定される[9][8]

百済は帯方郡故地に建国したと記録されているほど、帯方郡と縁が深く、4世紀楽浪郡・帯方郡が高句麗の攻撃によって滅亡すると、多くの楽浪郡・帯方郡遺民が百済に帰化した。近肖古王代の高興も楽浪郡遺民と推定される[12]372年に近肖古王は東晋から楽浪太守の爵号を受けており、この頃、多くの楽浪郡・帯方郡遺民が百済に吸収され、その一部は百済を経由して日本列島に向っている[13]。楽浪郡から出土した金石文で確認された漢姓は、周、孫、李、丁、鄭、高、趙、王、張、真、田、番、陽、杜、刑、盧、呉、黄、商、段、奉、程、貴、揚、半などであり、百済の歴史記録に名が残る高(高興、高達)、王(王茂王辯那王孝隣)、張(張威張茂張塞)、楊(楊茂)、陳(陳明陳春陳徳止陳微之陳法子)などの漢姓の者は百済の政治・外交をはじめとする中央政治で活躍した中国系帰化人である[12]。中国系帰化人の絶対多数は楽浪郡・帯方郡遺民とみられる[12]

「古記に曰く、百済は開国以来、いまだ文字で事実を記録することがなかったが、ここに至って博士高興を得て、ようやく『書記』を持つようになった」という記録から推し量って見て、高興が編纂した『書記』は百済最初の歴史書だったということができる[10]。高興が『書記』を編纂した時期は近肖古王の時だった[10]。このとき、百済は王位継承が肖古王系中心で安定し、また南北への征服的な膨張活動を展開して領域の拡大と王権の確立を見て、中央集権的統治体制が完備された時期だった[10]。したがって、これと同じ時代的状況と雰囲気の中で、高興が編纂した『書記』は王権を合理化し、王室の系譜を文字で記録し、これを神聖化しつつ、また、百済に服属された数々の部族の神話と伝説を王室中心に統合・整理したものと見られる[10]

高興がもつ博士という肩書きは、一般的に「五経博士」「太学博士」の略称と推定されるが、「五経博士」「太学博士」は、中国の教育機関である太学の教員を指す。このことから、百済も近肖古王時代に中国の太学のような教育機関を設けていたとする解釈がある[9]

高興が登場した作品 編集

ドラマ 編集

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g 」(朝鮮語)『增補 새國史事典 (ENCYCLOPEDIA OF KOREAN HISTORY [증보] 새 국사사전)』(増補1版12刷)敎學社ソウル、1996年、113頁。ISBN 8909005068 
  2. ^ a b c    (朝鮮語) グローバル世界大百科事典「三国時代の文学の特性」, ウィキソースより閲覧。 
  3. ^ 정재윤『중국계 백제관료에 대한 고찰』高麗大学歴史研究所〈史叢 77〉、2012年9月、22頁。doi:10.16957/sa..77.201209.1 
  4. ^ 전덕재 (2017年7月). “한국 고대사회 外來人의 존재양태와 사회적 역할” (PDF). 東洋學 第68輯 (檀國大學東洋學硏究院): p. 109. オリジナルの2022年4月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220423195439/https://cms.dankook.ac.kr/web/-oriental/-23?p_p_id=Bbs_WAR_bbsportlet&p_p_lifecycle=2&p_p_state=normal&p_p_mode=view&p_p_cacheability=cacheLevelPage&p_p_col_id=column-2&p_p_col_count=1&_Bbs_WAR_bbsportlet_extFileId=99960 
  5. ^ 이성제. “5호16국·남북조 상쟁기 이주민과 고구려·백제”. 国史編纂委員会. オリジナルの2022年11月23日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20221123050319/http://contents.nahf.or.kr/id/NAHF.edeah.d_0002_0010_0040 
  6. ^ 李弘稙『韓國古代史의 硏究』新丘文化社、1971年。 
  7. ^ 강종원『4세기 백제사 연구』서경문화사、2002年。 
  8. ^ a b 삼국사기 > 百濟本紀 第二 > 近肖古王 > 근초고왕이 죽다国史編纂委員会http://db.history.go.kr/item/compareViewer.do?levelId=sg_024_0080_01602022年4月2日閲覧 
  9. ^ a b c “고흥 高興,?~?”. 斗山世界大百科事典. オリジナルの2022年3月31日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220331150520/https://www.doopedia.co.kr/doopedia/master/master.do?_method=view&MAS_IDX=101013000827313 
  10. ^ a b c d e f 盧重国 (1996年). “고흥(高興)” [高興] (朝鮮語). 韓国民族文化大百科事典. 韓国学中央研究院. 2019年3月12日閲覧。
  11. ^ 三国史記  金富軾 (中国語), 「百済本紀」近肖古王三十年条, ウィキソースより閲覧, "三十年 〔略〕冬十一月 王薨。古記云 百濟開國已來 未有以文字記事 至是得博士高興 始有書記 然高興未嘗顯於他書 不知其何許人也。
    (近肖古王)三十年 〔略〕冬十一月 王薨ず。古記に云う、百済開国已来、未だ文字を以て事を記する有らず、是(ここ)に至って博士 高興を得、始めて書記あり、然るに高興 未だ嘗て他書に顕(あらわ)れず、その何許(いずこ)の人かを知らざるなり、と。
    『(近肖古王の)30年〔略〕冬11月、王が薨じた。『古記』には「百済は開国以来、文字で事件を書き記すということが今までなかった。この(近肖古王の)時になって博士 高興を得て、初めて書記があった。しかし、高興は今まで決して他の書物に現れたことがなく、どこの人かも分からないのである。」という。』"
     
  12. ^ a b c 金起燮『백제의 주민과 이주 여성』한국여성사학회、2017年、8-9頁。 
  13. ^
    右衞士督從三位兼下総守坂上大忌寸苅田麻呂等上表言。臣等本是後漢靈帝之曾孫阿智王之後也。漢祚遷魏。阿智王因神牛教。出行帶方。忽得寳帶瑞。其像似宮城。爰建國邑。育其人庶。後召父兄告曰。吾聞。東國有聖主。何不歸從乎。若久居此處。恐取覆滅。即携母弟迂興徳。及七姓民。歸化來朝。是則譽田天皇治天下之御世也。於是阿智王奏請曰。臣舊居在於帶方。人民男女皆有才藝。近者寓於百濟高麗之間。心懷猶豫未知去就。伏願天恩遣使追召之。 — 続日本紀、巻三十八

参考文献 編集

この記述には、ダウムからGFDLまたはCC BY-SA 3.0で公開される百科事典『グローバル世界大百科事典』をもとに作成した内容が含まれています。