検索結果
このウィキでページ「海軍水雷学校の教員」は見つかりませんでした。以下の検索結果も参照してください。
- 五藤存知 (カテゴリ 海軍機関学校の教員)海軍少尉・戦艦「石見」乗組 1912年(明治45年)7月12日 - 水雷母艦「豊橋」乗組 同年(大正元年)12月20日- 海軍砲術学校普通科学生 1913年(大正2年)5月24日 - 海軍水雷学校普通科学生 12月1日- 任 海軍中尉・3等駆逐艦「叢雲」乗組 1914年(大正3年)10月10日 -…7キロバイト (1,006 語) - 2024年4月9日 (火) 10:46
- 作曲家、指揮者。星条旗よ永遠なれの作曲者。海兵隊の音楽隊で勤務した後に民間のオーケストラへ移るが、第一次世界大戦の勃発により海軍の音楽隊に任官する。 アーレイ・バーク 第二次世界大戦中の水雷戦隊指揮官。「31ノット・バーク」の異名で知られる。海軍作戦部長を6年務めた唯一の人物。親日家であり、戦後海上自衛隊の…52キロバイト (4,617 語) - 2024年6月14日 (金) 19:54
- 木村昌福 (カテゴリ 海軍兵学校 (日本)出身の人物)水雷屋」のコースそのものを歩んでいる。しかし、「水雷屋」の要件である水雷学校高等科学生の履歴がなく、海軍士官としての専門を持たない「ノーマーク士官」であった。海軍省や軍令部での経験が無い艦隊勤務一筋の実戦派提督であり、勇猛果敢な上に豪放磊落な性格の…22キロバイト (3,594 語) - 2024年6月15日 (土) 00:14
- 岡田啓介 (カテゴリ 海軍兵学校 (日本)出身の人物)の月給は830円であった。岡田はそのうちの約半分、430円で一切の生活費をまかない、残りは首相の小遣いとなったという。 岡田は帝国海軍時代、艦隊勤務では最も厳しいといわれる水雷艇乗りだった。海軍水雷学校校長も務めている。だからこそ耐えられた官邸生活だった。岡田は前任の…38キロバイト (5,086 語) - 2024年3月17日 (日) 01:19
- 小柳冨次 (カテゴリ 海軍大学校の教員)水雷長などを歴任し、1926年(大正15年)11月、海軍大学校(甲種24期)を卒業。 第3戦隊参謀、「若竹」艦長、海兵教官、第2水雷戦隊参謀、海軍水雷学校教官、海軍省教育局第2課局員、第1駆逐隊司令、海大教官、「磐手」艦長、第8駆逐隊司令、水雷学校教頭、「愛宕」艦長などを歴任し、「金剛」艦長として太平洋戦争を迎えた。…6キロバイト (758 語) - 2024年6月15日 (土) 00:48
- 小沢治三郎 (カテゴリ 海軍大学校の教員)水雷長。1926年5月(大正14年)、連合艦隊参謀。12月、任海軍中佐。第1水雷戦隊参謀。1927年(昭和2年)12月、海軍水雷学校兼海軍砲術学校教官。1929年(昭和4年)12月、軍令部出仕。 1930年(昭和5年)2月から11月にかけて欧米に出張した。ドイツ、イギリスで第一次世界大戦の…52キロバイト (8,577 語) - 2024年6月14日 (金) 11:08
- 伊集院松治 (カテゴリ 海軍兵学校 (日本)の教員)海軍大尉・海軍水雷学校高等科第21期学生 1922年(大正11年)11月30日- 海軍水雷学校高等科修了 12月1日- 第2駆逐隊乗組 1924年(大正13年)12月1日- 海軍潜水学校乙種学生 1925年(大正14年)4月1日- 呂号51潜水艦乗組 12月1日- 1等海防艦「八雲」分隊長 海軍少尉候補生指導官…9キロバイト (1,062 語) - 2024年3月25日 (月) 06:17
- 左近司政三 (カテゴリ 海軍兵学校 (日本)の教員)12月12日- 海軍水雷術練習所学生 1906年(明治39年)7月12日- 3等駆逐艦「朝霧(初代)」乗組 9月28日- 2等巡洋艦「千歳」水雷長兼分隊長 1908年(明治41年)4月20日- 海軍大学校乙種学生 12月3日- 海軍水雷学校高等科第4期学生 1909年(明治42年)5月25日- 海軍水雷学校高等科修了…16キロバイト (2,170 語) - 2024年6月18日 (火) 23:59
- 栗田健男 (カテゴリ 海軍兵学校 (日本)の教員)海軍大尉に昇進し、巡洋艦「利根」分隊長の任命。1917年12月、海軍大学校乙種学生を拝命。1918年4月、水雷学校高等科学生を拝命。12月、駆逐艦「峯風」水雷長に任命。1919年6月、第五戦隊参謀に任命。1920年3月、駆逐艦「矢風」水雷長に任命。6月、駆逐艦「羽風」水雷長に任命。12月、時雨…58キロバイト (9,822 語) - 2024年6月14日 (金) 11:31
- 斎藤半六 (カテゴリ 海軍兵学校 (日本)出身の人物)の各分隊長、横須賀水雷団第1水雷艇隊艇長、佐世保水雷団水雷艇隊付、兼水雷艇「曙」回航委員、横須賀水雷団第2水雷艇隊艇長、「橋立」分隊長、横須賀鎮守府副官、兼東京湾要塞参謀などを経て、1902年(明治35年)10月、海軍少佐に昇進し海軍…6キロバイト (720 語) - 2024年3月5日 (火) 03:23
- 植松練磨 (カテゴリ 海軍兵学校 (日本)の教員)1948年8月22日)は、日本の海軍軍人、政治家。最終階級は海軍少将。衆議院議員。 福島県相馬郡鹿島町(現・福島県南相馬市)出身。安積中学を経て1905年11月、海軍兵学校(33期)を卒業し、1906年12月、海軍少尉任官。海軍大学校乙種、海軍水雷学校高等科を卒業。 第11艇隊・第9艇隊・第2艇隊の各艇長、水雷学校…4キロバイト (460 語) - 2023年7月27日 (木) 09:01
- 秋山真之 (カテゴリ 海軍大学校の教員)の水雷の活躍に注目して設置された海軍水雷術練習所(海軍水雷学校)の学生になり水雷術を学び、卒業後に横須賀水雷団第2水雷隊付になる。のちに報知艦「八重山」に乗艦し、海軍大尉となる。同年11月には軍令部諜報課員として中国東北部で活動する。 1898年(明治31年)に海軍の…40キロバイト (5,781 語) - 2024年6月12日 (水) 00:15
- 西川速水 (カテゴリ 海軍水雷学校出身の人物)1892年(明治25年) - 藤島町に移住し藤島小学校卒業 1903年(明治36年) - 荘内中学校(現・山形県立鶴岡南高等学校)卒業 1906年(明治39年)11月 - 海軍兵学校(34期)卒業 1907年(明治40年)12月 - 海軍少尉 任官 水雷艇艦長 1917年(大正6年) - 「河内」乗組み中、河内爆沈…4キロバイト (357 語) - 2023年11月18日 (土) 23:20
- 華頂博信 (カテゴリ 海軍大学校の教員)1939年(昭和14年)10月に海軍大学校教官となってからは、各種学校の教官を経験する。1945年(昭和20年)7月15日に海軍水雷学校教官に補され、翌月8月15日の終戦を迎える。階級は海軍中佐であった。同年9月5日には海軍大佐に進級し11月、予備役編入となる。…10キロバイト (1,217 語) - 2024年4月28日 (日) 23:18
- 中原義一郎 (カテゴリ 海軍水雷学校出身の人物)1944年(昭和19年)8月7日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。 高知県出身。教員・中原寿弥太の長男として生まれる。京都一中を経て、1920年(大正9年)7月、海軍兵学校(48期)を卒業。翌年6月に海軍少尉任官。1923年(大正12年)12月、海軍水雷学校…3キロバイト (352 語) - 2023年9月4日 (月) 12:20
- 館明次郎 (カテゴリ 海軍大学校の教員)海軍水雷学校特修学生を修了し、水雷専攻士官となる。「夕凪」駆逐艦長兼「疾風」駆逐艦長等を経て海軍大学校甲種学生(11期)を卒業。 その後「白雲」駆逐艦長を経て海軍少佐に昇進。「橘」駆逐艦長、第二艦隊参謀、佐世保鎮守府参謀、第二水雷戦隊参謀、水雷学校…5キロバイト (573 語) - 2021年6月16日 (水) 15:10
- 南雲忠一 (カテゴリ 海軍大学校の教員)雲から小沢治三郎中将に交代。南雲と小沢は共に水雷出身で、第11駆逐隊司令、第八戦隊司令官、海軍水雷学校長、第三戦隊司令官、海軍大学校長、第三艦隊司令長官等々、南雲(海兵36期)→小沢(海兵37期)の順番で着任している。互いに良い飲み相手であり、南雲が別の料亭で飲んでいた小沢を呼び出し、小沢が芸者を引き連れてやってくる関係だった。…75キロバイト (12,014 語) - 2024年2月17日 (土) 01:41
- 新見政一 (カテゴリ 海軍大学校の教員)の対策を講じようとしたが、軍務局の反対で結局海軍機雷学校の設立にとどまった。軍務局長は井上成美であり、井上の反対は学校の名称に関するものであったが、機雷学校の設立は新見、井上が役職を去った後である。なお両人は親英米路線では一致していたが、海大教官としての授業方針、兵機一系化を巡って意見が対立している。…13キロバイト (1,760 語) - 2024年6月12日 (水) 06:11
- 堀内三郎 (カテゴリ 海軍大学校の教員)玉社を経て、1890年7月、海軍兵学校(17期)を卒業し、1892年6月、海軍少尉任官。「天龍」乗組、横須賀海兵団分隊長、「浪速」分隊長、呉水雷団水雷艇隊艇長などを歴任。 1900年3月から海軍大学校で学び始めたが、義和団の乱により一時退学し、常備艦隊参謀、「常磐」分隊長、佐世保鎮守府参謀を勤めた…5キロバイト (562 語) - 2023年8月31日 (木) 20:23
- 大谷幸四郎 (カテゴリ 海軍大学校の教員)水雷長を歴任。1906年(明治39年)9月、海軍少佐に昇進。同年11月、第5艇隊司令兼7艇隊司令に発令され、「出雲」水雷長、第2艇隊司令、海軍教育本部出仕、「鞍馬」水雷長などを務めた。少佐時代に『動的発射論(敵の進路、速力の誤差により生ずる偏差及びこれに関する意見)』と題する論文を発表し海軍水雷術の発展に貢献した。…5キロバイト (738 語) - 2023年9月2日 (土) 23:36