狩野親光

平安時代後期から鎌倉時代の武士

狩野 親光(かのう/かの ちかみつ、生年不詳 - 文治5年8月9日1189年9月20日))は、平安時代後期から鎌倉時代の武士。工藤茂光の子。工藤親光とも。通称は五郎[1]

人物 編集

治承4年(1180年)、父茂光とともに石橋山の戦いに参陣。茂光はこの戦いで敗れ、息子である親光に介錯を頼んだが、親光は渋り、田代信綱が介錯を行った。親光は信綱から首を受け取り山へ逃げ込んだ[2]文治5年(1189年)、藤原国衡を攻めた際、厚樫山にて討死した(阿津賀志山の戦い[3]

脚注 編集

  1. ^ 20世紀日本人名事典. “工藤親光とは”. コトバンク. 2022年1月31日閲覧。
  2. ^ 近藤瓶城編 1900, p. 117.
  3. ^ 藤原相之助編 1916, p. 421.

参考文献 編集

  • 近藤瓶城編『史籍集覧』 31巻、近藤活版所、1900年。 
  • 藤原相之助編『日本先住民族史』仁友社、1916年。