田中 亀久人(たなか きくんど、1891年 - )は、田中製作所(現日酸TANAKA)の創設者。溶断機具の製造に従事した。著書に『ガス熔断機と共に四十年』(1956年)、『この道五十年』(1966年)がある[1]。溶接学会において1968年から田中亀久人賞が設けられている[2]

たなかきくんど

田中亀久人
生誕 1891年
著名な実績 減圧弁
影響を受けたもの 吉田藤作, 笠島房治郎, 澤田白嶺, 原田芳房
影響を与えたもの 加藤種一, 小池清一, 後藤大吉, 藤本源太郎, 浜井栄
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信州で金物業を営む

上京

本所区亀澤町の舟木商店から瓦斯器具修理の依頼を受け,高野工場を使って仕事を始める

1917年3月, 田中は下谷区竹町に酸素溶断器の専門工場を開業する

5月, 本所区亀沼町の船本商店とはじめて引取契約を結ぶ

1919年4月, 芝区田町の吉田藤作商店と取引を開始する(その関係は戦後の46年まで続いた)

5月, 工場を拡張し,同時に酸素減圧弁の改良製作に着手する

1931年9月, 田中製作所は日本酸素の下請工場となり,販売面での強化を図る

1932年6月, 減圧弁が登録実用新案として広告され,関東における酸素減圧弁の基本形となる

業績

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・減圧弁の改良

著作

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1956, 『ガス熔断機と共に四十年』

1966, 『この道五十年』

脚注

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