田宮 長勝(たみや ながかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武士紀州藩士。田宮流居合を主とした剣術)2代目にあたる。この頃より「田宮流」(古田宮流)を名乗った。

 
田宮長勝
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 不明
死没 正保2年(1645年)1月
官位 対馬守
主君 池田利隆徳川頼宣
紀州藩
氏族 田宮氏
父母 父:田宮対馬守
長家
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略歴 編集

池田利隆に仕え、大坂の陣で活躍した。その貢献が認められ、徳川家康の命によって、駿府城主時代の徳川頼宣に800石で仕える。また子・長家(平兵衞)も250石で仕えた。元和5年(1619年)に頼宣が紀州徳川家初代としてお国入した際、共に紀伊国和歌山に移った。

系譜 編集

和歌山県立図書館蔵の田宮家の『系譜』(弘化2年(1845年))には次のとおり、父は実名不明の対馬守で年月不明の時期に討ち死にし、その後長勝は加賀国をでたが、系図家譜などは紛失したとある。

田宮常圓長勝 右常圓長勝父、対馬守実名不知儀、年月不知討死仕、長勝儀加賀国ニ罷在候処、父討死之後、幼少ニ而本国を罷出候ニ付、系図家譜等致紛失候付、巨細之品相分ヶ不申候 — 田宮家の『系譜』抜粋

田宮流伝書 編集

『田宮流居合傳書』(享保5年子5月(1720年))では田宮流の流祖とする。

遠州浜松住ス 中村隠岐 居合工夫以来二刀之名誉、中村流ト号
流組 武州住ス 田宮対馬守 是ヨリ田宮流ト号、中古兵術之祖ト云、真剱之執行年久シ
2代 紀州住ス 田宮平兵衛 大院殿居合御照覧、日本名誉也、達人、紀州他国ニ門弟多シ — 『田宮流居合傳書』抜粋

ただし後の古田宮流の伝書では中村隠岐の名は消え田宮平兵衛(田宮重正)を初代とするようになった。