程 拠(てい きょ、? - 300年)は、中国西晋時代の医者。

経歴

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咸寧四年(278年)11月、太医令司馬の程拠は雉頭裘(きじの毛皮衣)を帝に献上した。しかし、司馬炎は「奇技異服は典礼の禁じるところである」と詔を出して、御殿の前でこれを焼いた[1]

後に昇進して太医令となる。291年、賈皇后は司馬亮らを誅殺するといよいよ好き勝手に荒淫し、程拠らとともに乱れぶりが内外に知られた[2]

297年賈南風の乳母の徐義が病で伏せると頻繁に見舞いが送られたが、その中に奉車都尉関中侯・程拠の名も見える[3]

300年3月、賈南風の命で廃太子の司馬遹を毒殺するために「巴豆杏子丸」を調合する。しかし、司馬遹は警戒して食べなかったため、孫慮が藥杵で撲殺した。その後、4月に賈南風が誅殺されると劉振、孫慮、程拠らも連座した[4]

脚註

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  1. ^ 『晋書』世祖武帝記「咸寧四年十一月辛巳,太醫司馬程拠獻雉頭裘,帝以奇技異服典禮所禁,焚之於殿前。甲申,敕內外敢有犯者罪之。」
  2. ^ 『晋書』恵賈皇后
  3. ^ 『賈南風乳母徐義墓誌銘』「皇帝陛下、皇后、慈仁矜愍,使黃門旦夕問訊,遣殿中大醫、奉車都尉關中侯程拠、劉琁等,就家瞻視。」
  4. ^ 『晋書』愍懷太子遹伝

参考文献

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