稲村 貫一郎(いなむら かんいちろう・1850年6月14日(嘉永三年3年5月5日) - 昭和8年1933年4月13日(昭和8年)

『熊谷人物事典』(日下部朝一郎編著 国書刊行会 1982)

日本政治家実業家荻野吟子の最初の夫。

略歴 編集

1850年6月14日(嘉永三年3年5月5日) 稲村貫一郎は、稲村弥五右衛門・ツネ夫妻の長男として生れた。(『荻野吟子 実録・日本の女医第一号』(奈良原春作著 国書刊行会 1984)より)

稲村家は古河藩の飛地であるこの辺 りの支配を任され、 苗字帯刀を許される ほどの、北埼玉有数の豪農であった。

貫一郎は、少年の頃、古河藩に遊学し、 また寺門静軒の両宜塾でも学んだ。

1867年(慶応3年)に名主役。(熊谷デジタルミュージアムより)

1868年(慶応4年)荻野吟子(当時は荻野ぎん)と結婚。

吟子が嫁いだ当時、古河藩士を父に持ち、日本を代表する女流南画家・奥原晴湖が、戊辰戦争の難を逃れるため、稲村家に仮寓していました。(日本最初の女医-埼玉県より)

1869年(明治2年)副戸長。(熊谷デジタルミュージアムより)

1870年(明治3年)、荻野吟子と協議離婚。原因は吟子に淋病をうつした為とされる。

その後も吟子に援助を続けたと言われている(日本最初の女医-埼玉県より)

1872年(明治5年)には、埼玉県初の民権運動結社・七名社(しちめいしゃ)の創立メンバーとなり、民権論的な討論を行い、製糸会社設立計画反対の建言書を提出するなど、県の政策にも提言した。郡制施行により郡吏となる。(熊谷デジタルミュージアムより)

1873年(明治6年)埼玉郡酒巻村(現、行田市)の、中村勝右衛門の長女、美智と再婚。 美智が33歳という若さで没し、その長井村大字江波(熊谷市妻沼)の名門、内田善衛の娘フサを後添えに迎えた。(この、フサとの結婚式に、当時すでに女医になり、荻野吟子と称していたぎんが、貫一郎の妹分として参列した。(『荻野吟子 実録・日本の女医第一号』(奈良原春作著 国書刊行会 1984)より)

1874年(明治7年)戸長となる。(熊谷デジタルミュージアムより)

1877年(明治10年)には県会へ進出。(熊谷デジタルミュージアムより)

1882年(明治15年)に副議長就任。(熊谷デジタルミュージアムより)

1887年(明治20年)に辞職。熊谷町に牧畜牛乳販売の愛生舎を開業し、熊谷銀行を創設すると同時に頭取に推され、熊谷貯蓄銀行も経営した。(熊谷デジタルミュージアムより)

1904年(明治37年)上川上、上中条連合耕地整理事業を実施し、農民のために製縄機の貸付、副業としての杞柳栽培を企て、県物産品評会に柳行李を出品して受賞、埼玉県杞柳細工の端緒を作った。(熊谷デジタルミュージアムより)

1913年(大正2年)日本赤十字社特別賞受賞。(熊谷デジタルミュージアムより)

1933年(昭和8年)4月13日死去。 (『熊谷人物事典』(日下部朝一郎編著 国書刊行会 1982)より)

脚注 編集

外部リンク 編集