臨政太子(りんせいたいし、朝鮮語: 임정태자生没年不詳)は、姜沆が著した『看羊録』に登場する架空百済王族[1]倭国周防に行き、大内氏の祖となった、と主張しているが、この主張に対して松田甲は「奇評を発している」と述べている[1]

臨政太子
各種表記
ハングル 임정태자
漢字 臨政太子
発音: {{{nihonngo-yomi}}}
日本語読み: りんせいたいし
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考証 編集

松田甲は、「大内氏が百済王の子孫なりといふ事は、もと大内氏より言ひ出したに違い無いが、朝鮮の文献にも多くはそれを然りとして書いてある」として、申叔舟が著した『海東諸国紀』を挙げている[1]

大内殿、多々良氏、世々州の大内縣山口に居る。周防・長門・豊前・筑前四州の地を管す。兵最も強し。日本人称す、百済王温祚の後、日本に入り、初めて周防州の多々良浦に泊す、因て以て民と為すと。今に至る八百餘年、持世に至るまで二十三代、世に大内殿と號す。持世に至りて子無し、姪教弘を以て嗣と為す、教弘死し、子政弘嗣ぐ、大内兵強く、九州以下敢て其の令に違ふもの無し。系百済より出でしを以て、最も我れに親たしむ。 — 申叔舟、海東諸国紀

以上から、朝鮮の人々は、概ね『海東諸国紀』によって大内氏を知り、その後、徳川時代に日本に往復した朝鮮通信使の紀行などでも、『海東諸国紀』と同様の意を書いている[1]。一方、姜沆が著した『看羊録』は他書と趣を異にし、大内氏および毛利氏の関係を説き、これについて奇評を発している[1]

輝光と曰ふ者あり、京西の大帥なり。壬辰の役、元帥たる者なり。安藝中納言と稱し、或は毛利中納言と稱す。始め百済亡ぶ、臨政太子船に乗じて倭国に入り、大内左京大夫と為り周防州に都す。其の子孫四十七世を歴、世々倭官と為り、其の土地を襲ふ。輝元の先きは、乃ち其の従者なり。臨政の裔を多々良氏と為し、輝元の先きを大江氏と為す、後ち毛利と改む。臨政の裔既に絶ゆ。輝元の祖代って其の土を襲ひ安藝州の広島に都し、物力の雄倭京に擬す、其の風俗倭中に視るに稍々厚し、性頗ぶる寫綾、多く我国人の気像有りと云ふ。 — 姜沆、看羊録

脚注 編集

  1. ^ a b c d e 松田甲『日鮮史話』朝鮮総督府〈第2編〉、1926年、10-11頁。