荀 灌(じゅん かん、303年 - 没年不詳)は、中国西晋の女性。

生涯

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荀灌は、襄城郡太守であった荀崧の末娘であり、『三国志』の名参謀として有名な荀彧の子孫にあたる。建興3年(315年[1]、襄城が杜曾の反乱軍に包囲されて糧食が尽きようとしたとき、数えでわずか13歳の荀灌が数十名の決死隊を率いて包囲を脱出した。そして、平南将軍の石覧らに救援を求めて、反乱軍を敗走させた。

張献忠と戦った女性将軍の秦良玉や数え17歳で城を守った少女軍人の沈雲英と並び、中国史における女性軍人として有名である。

関連項目

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出典

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  1. ^ 資治通鑑』卷八十九

参考文献

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荀崧,字景猷,潁川臨潁人,魏太尉彧之玄孫也。父頵,羽林右監、安陵郷侯,與王濟、何劭為拜親之友。崧志操清純,雅好文學。齠齔時,族曾祖顗見而奇之,以為必興頵門。弱冠,太原王濟甚相器重,以方其外祖陳郡袁侃,謂侃弟奥曰:「近見荀監子,清虚名理,當不及父,德性純粹,是賢兄輩人也。」其為名流所賞如此。泰始中,詔以崧代兄襲父爵,補濮陽王允文學。與王敦、顧榮、陸機等友善,趙王倫引為相國參軍。倫簒,轉護軍司馬、給事中,稍遷尚書吏部郎、太弟中庶子,累遷侍中、中護軍。王彌入洛,崧與百官奔於密,未至而母亡。賊追將及,同旅散走,崧被發從車,守喪號泣。賊至,棄其母屍於地,奪車而去。崧被四創,氣絕,至夜方蘇。葬母於密山。服闋,族父藩承制,以崧監江北軍事、南中郎將、後將軍、假節、襄城太守。時山陵發掘,崧遣主簿石覽將兵入洛,修復山陵。以勳進爵舞陽縣公,遷都督荊州江北諸軍事、平南將軍,鎮宛,改封曲陵公。為賊杜曾所圍。石覽時為襄城太守,崧力弱食盡,使其小女灌求救于覽及南中郎將周訪。訪即遣子撫率兵三千人會石覽,俱救崧。賊聞兵至,散走。崧既得免,乃遣南陽中部尉王國、劉願等潛軍襲穰縣,獲曾從兄偽新野太守保,斬之。


荀崧小女灌,幼有奇節。崧為襄城太守,為杜曾所圍,力弱食盡,欲求救于故吏平南將軍石覽,計無從出。灌時年十三,乃率勇士數十人,逾城突圍夜出。賊追甚急,灌督厲將士,且戰且前,得入魯陽山獲免。自詣覽乞師,又為崧書與南中郎將周訪請援,仍結為兄弟,訪即遣子撫率三千人會石覽俱救崧。賊聞兵至,散走,灌之力也。