葛原運次郎

大正から昭和時代前期の政治家

葛原 運次郎(くずはら うんじろう、1880年明治13年〉[1] - 1945年昭和20年〉12月[2])は、大正から昭和時代前期の政治家青森県南津軽郡田舎館村長弘前市長。

経歴

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青森県南津軽郡豊蒔村(現在の田舎館村豊蒔)出身[3]東奥義塾から第二高等学校を経て、東京帝国大学文学部に進む[1]1905年(明治38年)文学部講師嘱託となり、市村瓚次郎の助手として満州へ渡る[1]。帰朝後は、東奥義塾教師、千葉県成田中学校長など全国各地の校長を歴任し、1926年大正15年)大館中学校から弘前中学校の第14代校長となる[1]

1931年(昭和6年)同校生徒の「嶽温泉籠城ストライキ」の責任を取り、翌春校長を辞職[1]1940年(昭和15年)田舎館村長となり、1942年(昭和17年)7月には弘前市長に就任した[1][3]

太平洋戦争末期から終戦時の混乱期で市政を担当し、県の師範学校の誘致などに尽力したが、在任中に急逝した[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 東奥日報社 2002, 211頁.
  2. ^ 歴代市長(旧弘前市)”. 弘前市. 2019年11月2日閲覧。
  3. ^ a b 帝国秘密探偵社 1943, 青森8頁.

参考文献

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  • 帝国秘密探偵社 編『大衆人事録 第14版 北海道・奥羽・関東・中部篇』帝国秘密探偵社、1943年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1229896 
  • 東奥日報社 編『青森県人名事典』東奥日報社、2002年。ISBN 4885610656