藤原慶子

室町時代前期の女性。安芸法眼(三宝院の坊官)の娘。足利義満の侍女・側室

藤原 慶子(ふじわら の よしこ、延文3年/正平13年(1358年) - 応永6年5月8日1399年6月12日))は、室町時代前期の女性室町幕府第3代将軍・足利義満側室。同第4代将軍・足利義持と同第6代将軍・足利義教らの生母。通称は北向殿[1]

生涯 編集

父は三宝院の坊官・安芸法眼[2]、慶子ははじめ義満の侍女として仕えた[3]。後に義満の側室となり、義持・義教らを産んだ。他には応永4年(1397年)に入江殿聖仙を産んでいる[1]。義満が北山御所に移ると慶子は義持と共に室町御所にあった。応永6年(1399年)5月8日の夕刻に死去[4]。享年42[5][注釈 1]

将軍の生母だったため従一位が贈られ[6]、息子2人が将軍に就任すると年忌仏事等は特に鄭重に行なわれたという。戒名は勝鬘院殿栄室慈蕃禅定尼[5]

義満は慶子の死に悲しみの態度を見せず、彼女が死んだ翌日に家臣の邸宅で大酒を飲んでいたという[注釈 2]。さらに忌中の6月23日には北山御所で酒宴が行なわれ籤も行なわれたりしたとされ[注釈 3]、この義満の慶子に対する態度が義持との不仲につながったとされている[注釈 4]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 迎陽記』には「5月8日、戊寅、晴(中略)今夕大樹(義持)御母儀北向御事あり、去年より凕劣(弱り衰える)御悩みと云々、御年42也」とある。
  2. ^ 『迎陽記』には赤松邸で「大飲」したとあり、筆者の東坊城秀長は「彼御事御悲嘆なきか」と感想を述べている。
  3. ^ 『迎陽記』には「希代の事也」とある。
  4. ^ ただし義満は応永13年(1406年)7月7日に慶子の菩提料所として美濃座倉郷を寄進している。

出典 編集

  1. ^ a b 臼井 1989, p. 235.
  2. ^ 伊藤 2008, p. 226.
  3. ^ 伊藤 2008, p. 1.
  4. ^ 伊藤 2008, p. 9.
  5. ^ a b 臼井 1989, p. 236.
  6. ^ 伊藤 2008, p. 227.

参考文献 編集

  • 臼井信義『足利義満』(新装)吉川弘文館〈人物叢書〉、1989年。ISBN 4-642-05150-3 
  • 伊藤喜良『足利義持』吉川弘文館〈人物叢書〉、2008年。ISBN 978-4-642-05246-7