買弁(ばいべん。拼音:买办 mǎibàn)は、清朝末期の1800年代から1940年代にかけて、欧米列強(銀行や商社)の対中進出や貿易を支援した中国人商人のこと。転じて、外国資本に追随し、自国の利益を損なうような行為や人物のことを指す。例:「買弁的な行為」。

概要 編集

清朝末期、欧米列強の対中進出が進むにつれ、租界商館、洋行[1]などが出現し、欧米列強のビジネスを支援する中国人商人の存在が必要になり、これが「買弁」と呼ばれるようになった。彼らの多くは外国語能力が高く、清朝政府と欧米商会をつなぐ人脈や政治的センスも重宝され、一部の人物は豪商にまで成長した。また、それらの豪商の中には熱心に社会的活動に取り組む人物もいた。

買弁の数 編集

買弁の数を正確に記録した資料は存在しないが、洋行の数から推測できる[2]。天津を例にとると、1867年に全部で17の洋行があり、1875年には30近く[3]に増えた。当初、洋行の規模は小さく、どの洋行でも1人の買弁がいれば足りたため、1875年でも天津の買弁の数は百人程度だったと考えられる。

その後、洋行の数は1906年に232[4]にまで増加。第1次世界大戦の時期から戦後にかけて、日本やアメリカの洋行の数が激増し、1936年には982[3]にも達した。どの支店や代理店でも買弁の数を増やしたため、清末の天津の買弁は数千人以上にのぼったと考えられる。

主な買弁 編集

脚注 編集

  1. ^ 海外との取引を行う貿易会社のこと。
  2. ^ 『近代天津における買弁階層の社会イメージと自己認識』耿科研 2010年
  3. ^ a b 『天津市地方志編修委員会』1996年
  4. ^ 孫徳常他 1990年

関連項目 編集

外部リンク 編集

  • 杉本一徳「アヘン戦争後の清朝政権の買弁化について」『ふびと』第39号、三重大学歴史教室、1982年1月、55-61頁、NAID 120005982302 

耿科研「近代天津における買弁階層の社会イメージと自己認識」『大阪大学中国文化フォーラム・ディスカッションペーパー』第2010-14巻、大阪大学中国文化フォーラム、2010年5月、1-10頁。