赤沢 経智(あかざわ つねとも)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将信濃小笠原氏の家臣。

 
赤沢経智
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 永正8年(1511年
死没 天正2年(1574年7月
改名 経智、玄澤(号)
別名 又太郎
官位 伊豆守式部少輔
主君 小笠原長時
氏族 赤沢氏
父母 赤沢政経
島館入道喜仙
長勝小笠原貞経
テンプレートを表示

略歴 編集

永正8年(1511年)、赤沢政経の子として誕生。

父と共に信濃国に戻って以降は再び塩崎城に入り、本家であり主家である信濃守護小笠原氏に仕える。信濃へ侵攻を繰り返す武田信玄に対して天文14年(1545年)以来、守護小笠原長時に従って激戦を繰り広げるも天文19年(1550年)7月には長時の居城である林城が落城。自身も居城である塩崎城を家臣の桑原氏に奪われた為、長時及び嫡男・長勝、三男・貞経らと共に長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後国に落ち延び、天正2年(1574年)7月、同国春日村で没した。享年64。仏門に入った後は玄澤を号した。

長時、長勝、貞経は更に弘治元年(1555年)に同族である三好長慶を頼って上洛した。

系譜 編集

出典 編集