鈴木 重辰(すずき しげたつ、生年不詳-1558年)は、戦国時代の人物。寺部城城主。鈴木重則の子である。日向守民部とも称される[1][2]

略歴

編集

1558年に重辰が今川家から離反し、広瀬城主の三宅高清と結び織田信長に寝返った。永禄元年(1558年)2月5日には徳川家康は今川からの離反を理由に重辰の守る寺部城を攻めた。(寺部城の戦い)この戦で寺部城と共に討死した[3]

人物

編集

脚注

編集
  1. ^ 史籍集覽
  2. ^ 国史上より観たる豊橋地方
  3. ^ 豊田市史
  4. ^ 岡崎市史別巻

参考文献

編集
  • 『史籍集覽』(1881年)
  • 大口喜六『 国史上より観たる豊橋地方』(校訂増補豊橋史談刊行会、1937年)
  • 『岡崎市史別巻  徳川家康と其周囲-上巻』(1934年)
  • 『豊田市史  第11巻』4p

関連項目

編集