関口隆正
関口 隆正(せきぐち たかまさ、1856年6月27日(安政3年5月25日)[1] - 1926年(大正15年)4月26日[2][3])は、明治、大正時代の漢学者[3]。幼名は璵四郎、号は外斎、岳南、耕堂、無改、夢界[1]。
略歴
編集清水礫洲(れきしゅう)の四男[1]。中村知常の養子、関口隆吉の婿養子[1]。江戸・牛込門内に生まれる[1]。安井息軒、大橋陶庵に学び、岡松甕谷の紹成書院[4]の幹事となった[3]。1884年(明治17年)清に留学[3]。1890年(明治23年)6月〜12月及び、1891年(明治24年)4月〜1892年(明治25年)7月の間、静岡県尋常中学校で教鞭を執る(国漢[注釈 1])[5]。私立静岡女学校第3代校主。日清・日露戦争では陸軍通訳として従軍[3]。1897年に台湾総督府台中弁務署長に任ぜられ、1899年には彰化弁務署長も兼任し、1901年に辞職[1]。1907年には南満洲鉄道社員となり、大連に滞在[1]。1909年から1911年までは台湾において銀行・印刷会社創立に携わった[1]。1917年より1919年まで旅順高等学堂の教授をつとめる[3][1]。
著書
編集家族
編集脚注
編集注釈
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