陳 修(ちん しゅう、197年? - 229年)は、中国三国時代の武将。字は奉先[1]。「陳脩」とも呼ばれる。に仕えた。父は陳武。異母弟は陳表。子は陳延・陳永。

生涯編集

その容貌に父の風格があった。19歳の時、孫権は彼を召し寄せ、父と同様の功労を尽くすよう励まし、別部司馬に任じて軍勢500人を率いさせた。

丁度このころ、諸将の新兵の中には逃亡・叛乱を企てる者が多かったが、彼が配下の士卒の気持ちをよく掴んだので、逃亡・叛乱する者は一人としていなかったという。孫権はこれを聞きつけるや彼を誉めて、校尉に任命した。

建安年間の末期、孫権は功臣達の生前の功績を再評価し子孫達に恩賞を与えた。陳修もまた父の功績を評価され、都亭侯に封ぜられた上で、解煩督に昇った。黄龍元年(229年)に死去した。

異母弟が活躍したが、死後にその子の陳敖が若死すると、陳修の子達が採り立てられている。

出典編集

  1. ^ 『会稽典録』