美人韓氏(びじん かんし、生没年不詳)は、北宋哲宗の妃嬪。

生涯

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最初、後宮に入って御侍(皇帝の側女)となった。元符2年(1099年)閏9月、仁寿郡君に封ぜられた。同年11月、才人に進んだ。当時、哲宗は病いが重く、韓才人、乳母の竇氏、数人の侍女、側女たちが常時看護を任された。

3カ月後の元符3年(1100年)正月に哲宗が崩ずると、皇太后向氏は功績なしを口実に、臨終まで看護した者[1]をみな降格して追い出した。韓才人は紅霞帔(皇帝の側女)に降格され、園陵の奉仕にあたった。

建中靖国元年(1101年)、向氏が崩ずると、徽宗によりそれらの者たちは皇宮に召還され、韓氏は才人に復された。大観2年(1108年)2月、美人に進んだ。

靖康の変の前後の動静については記録がない。すでに薨去していたか、あるいは変の際に行方知れずとなったかも不明である。

脚注

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  1. ^ 才人韓氏・楽安郡夫人李氏・永嘉郡夫人陳氏・司闈馬氏・司正白氏・司賛王氏・乳母魏国福康恵祐夫人竇氏。

伝記資料

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  • 宋史
  • 『宋会要輯稿』
  • 『皇宋十朝綱要』
  • 『曾公遺録』