駱秀
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事績 編集
父の駱統は呉の濡須督などを務めたが[1]、その子である駱秀は一族の中で非難を受け、評価されることがなかった。これに対し、人物眼のある謝淵は嘆息して言った。
「公緒殿(駱統)の早逝は同盟国(蜀漢)までもが哀しんだことだというのに、その子息は志行に優れ、道理を弁えた人物にもかかわらず、愚昧な者たちから謗りを受けているとのこと。士大夫の方々が裁断を下してくれることが私の望みであり、なお疑いを持たれているのは望まざるところである」
駱秀は後に、正しき人物であることが明らかになり、その行いに瑕疵もなく、ついには名の通った人物となったが、そこには謝淵の力添えがあった[2]。
脚注 編集
- ^ a b 陳寿撰、裴松之注『三国志』呉書 駱統伝 s:zh:三國志/卷57#駱統
- ^ 『三国志』呉書 陸遜伝注『会稽典録』 s:zh:三國志/卷58
- ^ 『三国志』呉書 孫休伝 s:zh:三國志/卷48#孫休