駱 秀(らく しゅう、? - 264年)は、中国三国時代武将揚州会稽郡烏傷県の人。祖父は駱俊。父は駱統

生涯編集

駱秀は若い頃、一族の者たちから謗りを受け、人々の評判もそれに惑わされて、誰も駱秀の潔白を証明してやれる者がいなかった。同郡出身の謝淵は、このことを聞くと嘆息していった。「公緒(駱統)どのが若くして死なれたとき、同盟国()の者までがその死を悲しんだものであった。聞けば、そのご子息は、志ある行動と立派な議論の才をそなえておられながら、愚昧な連中の謗りを受けておられるとのことだ。立派な方々がそれにきっぱりと白黒をつけてくださるものと願っていたのに、みな心を決めかねている。期待外れもいいところだ」駱秀は、結局無実であることが明らかになり、それ以後、その行動に非難すべきところもなく、ついには名の通った人物となったが、それには謝淵の力があずかっていたという[1]

その後、呉で司塩校尉まで出世したが、永安7年(264年)7月、海上の不服従民が海塩を襲った。海塩にて任務に就いていた駱秀は救援を求め、中書郎の劉川廬陵より救援に向かったが、救援は間に合わず守りが打ち破られ、駱秀は殺されたという[2]

参考文献編集

脚注編集

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  1. ^ 三国志』呉志 陸遜伝 に引く 『会稽典録
  2. ^ 『三国志』呉志 孫休伝 に引く 『会稽典録』