「四日市ぜんそく」の版間の差分

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四日市市の石油化学コンビナートの建設は旧海軍燃料廠跡地に[[通産省]]の指導で[[イギリス]]の[[シェル]]=三菱系の石油関連資本に払い下げられた1955年にはじまり、昭和34年頃から第1コンビナートの本格的な操業が開始された。続いて昭和38年に[[大協石油]]・[[KHネオケム|大協和石油化学]]・中部電力の第2コンビナートが操業を開始した<ref>ファミリー版世界と日本の歴史12巻現代4巻21世紀への扉72頁</ref>。四日市コンビナートの誘致と建設で有名な言葉となり、四日市市民に定着している用語の『コンビナート』(企業集団)とは元々[[日本語]]でも[[英語]]でもなく、戦後になって広まった新しい[[外来語]]で、当時([[昭和時代]])の[[社会主義国]]であった[[ソビエト連邦]]で誕生した[[ロシア語]]であった。四日市市民にこのロシア語が日常用語として使用された<ref>http://www.cty-net.ne.jp/~mido-kan/site1/ayamachi.html</ref>。
 
昭和40年代になり、塩浜地区の磯津港で水揚げされる魚は臭い汚染された魚と見られて、[[風評被害]]で水産物の購入が敬遠された<ref>四日市市史(第14巻)史料編現代I、700頁から702頁</ref>。塩浜地区民に異常な変な咳の症状の被害が発生した。ぜいぜいと息をする喘息症状の発作が起きるなどの病気が集団発生して塩浜地区民に健康被害が急増した。磯津地区の開業医であった中山医師は、「正確には喘息と確定ではないが喘息の様な特異な疾患」に「塩浜ぜんそく」と命名して、喘息発作止めの注射を打つなどの注射投与による治療方法を考案した。中山医師は注射による措置が有効として公害患者には特別な治療行為をした。 三重県の革新知事であった田中覚は四日市コンビナートの建設によって『輝ける伊勢湾時代』を展望して『大四日市』を構想していた。四日市の工業生産は急成長をしていたが、人口の伸びが鈍り[[1964年]]頃には四日市市転入人口より転出人口の方が多くなり人口の構造が逆転して、四日市市の人口30万人都市計画は挫折した。「これは公害の問題ではない。現実の四日市市民が困っている事態で市長として見捨てられない。四日市市が見舞金として支出しても良いではないか。四日市が踏み切れば、国家と三重県が放っておくまい。必ず四日市市に同調をする」以上が平田市長の考えであった。[[厚生省]]の反対を押し切り四日市市単独で患者の医療費の補償制度を開始した<ref>菅井益郎 『公害の研究―産業の発展によってうしなわれたものとは』16、ポプラ社〈調べ学習日本の歴史〉、2001年4月、30頁右側1行目から3行目と左側1行目から9行目</ref>。街には悪臭が広がり、伊勢湾では汚染された魚が獲れるようになり、四日市市内で漁業が盛んだった塩浜地区・富田地区・富洲原地区の漁村では漁業が衰退した<ref>四日市市史(第14巻)史料編現代I、700から702頁</ref>。
 
[[1963年]]に異臭魚の被害が拡大した事で「磯津漁民一揆」がおきる。国の[[黒川真武]][[博士]]を中心に以下の数10人の一流の学者で調査団が構成された。2000万円の予算を計上した「黒川調査団」が大気汚染の現地である四日市市の塩浜地区の調査をする<ref>四日市市史(第14巻)史料編現代I、723頁</ref>。工場に最寄りの塩浜地区では、ばい煙・騒音などの環境問題を四日市市に訴えた。