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[[安政]]7年(1860年)、[[会津若松市|会津若松]]の生まれ。父は[[会津藩]]の国[[家老]]・[[山川重固|山川尚江重固]](やまかわ なおえ しげかた)で、2男5女の末娘である。さきが生まれたときに父は既に亡く、幼少の頃は父方の祖父の[[山川重英|兵衛重英]](ひょうえ しげひで)が親代わりとなった{{sfn|秋山ひさ|1985|p=83}}。重英は会津藩財政再建に貢献し、知行300石から1,000石に加増され、また[[種痘]]や新式銃にもいち早く理解を示した人物であった{{sfn|秋山ひさ|1985|p=83}}。母・えん(父の没後に出家し勝聖院)は西郷氏の出身で唐衣(からごろも)の雅号を持つ会津藩屈指の歌人であった{{sfn|秋山ひさ|1985|p=83}}。厳格な人柄であり、子供たちには[[軍記物]]を読み聞かせ、[[懐剣]]もすぐ抜けるよう袋を短めにしていたという{{sfn|秋山ひさ|1985|p=83}}。
 
一家の運命を大きく変えたのは[[会津戦争]]だった。[[慶応]]4年([[1868年]])8月、[[板垣退助]]・[[伊地知正治]]らが率いる新政府軍が[[会津若松城]]に迫ると、[[数え年|数え]]8歳のさきは家族と共に[[籠城]]し、弾薬の運搬を手伝っていた{{sfn|秋山ひさ|1985|p=84}}。女性たちは[[焼玉式焼夷弾]]が場内に着弾すると一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしており、さき自身がこの作業にあたったという説も存在するが、子孫で歴史ライターの[[大山格]]は、小児のさきにそのような重いものを持ち上げられるはずはないことを根拠に、事実ではないとしている<ref name="大山格20201223">{{cite web|url=https://intojapanwaraku.com/culture/136192/|title=大反対をよそに恋愛結婚。陸軍大将・大山巌の結婚生活は幸福だったか?|website=和樂web 日本文化の入り口マガジン|date=2020-12-23|accessdate=2021-2-1}}</ref>。戦いのある日、さきたちが食事をしている部屋で砲弾が炸裂し、長兄の大蔵(おおくら、後の[[山川浩]])の妻トセが大やけどを負い、さきも首を負傷した{{sfn|秋山ひさ|1985|p=84}}。トセは「母上、母上、どうぞ私を殺してくださいませ。あなたの勇気はどこにいってしまったのですか」と懇願するほど苦しんだが、義母えんには手の尽くしようもなく息を引き取った{{sfn|秋山ひさ|1985|p=84-85}}。
 
若松城攻撃の際に、当初官軍の砲兵隊長をつとめていたのは、のちに夫となる薩摩藩出身の大山弥助(のちの[[大山巌]])だったが、初日に負傷し翌日後送されており、実際に若松にいたのは2日のみである<ref>[[児島襄]]『大山巌』文春文庫(第一巻)281頁-296頁</ref>。
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=== 官費留学 ===
[[File:First female study-abroad students.jpg|thumb|250px|新政府の米国留学女学生。左から、永井しげ (10)、上田てい (16)、吉益りょう (16)、津田うめ (9)、山川捨松 (12)。明治4年(1871年)。姓名はいずれも当時のもの、数字は数え歳<ref group="注釈" name="girls">各学生の概歴は以下の通り:<br />上田てい:上田悌子<small>(うえだ ていこ)</small>、満14歳、旧幕臣・上田畯の娘、後に医師・桂川甫純と結婚、没年不詳。<br />吉益りょう:吉益亮子(よします りょうこ)、満14歳、旧幕臣・吉益正雄の娘、1885年以前に死去。<br />永井しげ:[[瓜生繁子|永井繁子]](ながい しげこ)、満8歳、旧幕臣・益田鷹之助の娘(旧幕臣・永井久太郎の養女)。<br />津田うめ:[[津田梅子]](つだ うめこ)、満6歳、旧幕臣・[[津田仙]]の娘。</ref>。]]
[[File:First female study-abroad students.jpg|thumb|250px|新政府の米国留学女学生
左から、永井しげ (10)、上田てい (16)、吉益りょう (16)、津田うめ (9)、山川捨松 (12)。明治4年。姓名はいずれも当時のもの、数字は数え歳<ref group="注釈" name="girls">各学生の概歴は以下の通り:<br />上田てい:上田悌子<small>(うえだ ていこ)</small>、満14歳、旧幕臣・上田畯の娘、後に医師・桂川甫純と結婚、没年不詳。<br />吉益りょう:吉益亮子(よします りょうこ)、満14歳、旧幕臣・吉益正雄の娘、1885年以前に死去。<br />永井しげ:[[瓜生繁子|永井繁子]](ながい しげこ)、満8歳、旧幕臣・益田鷹之助の娘(旧幕臣・永井久太郎の養女)。<br />津田うめ:[[津田梅子]](つだ うめこ)、満6歳、旧幕臣・[[津田仙]]の娘。</ref>。]]
 
[[明治]]4年([[1871年]])、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]視察旅行から帰国した[[開拓使|北海道開拓使]]の次官[[黒田清隆]]は、数人の若者をアメリカに留学生として送り、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせることにした。黒田は西部の荒野で男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人女性にいたく感銘を受けたようで、留学生の募集は当初から「男女」若干名という例のないものとなった。
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5人の女子留学生のうち、すでに[[思春期]]を過ぎていた年長の2人は病気を理由にその年のうちには帰国してしまった{{sfn|秋山ひさ|1985|p=87}}。逆に年少の捨松、[[瓜生繁子|永井しげ]]、[[津田梅子|津田うめ]]の3人は異文化での暮らしにも無理なく順応していった。この3人は後々までも親友として、また盟友として交流を続け、日本の女子教育の発展に寄与していくことになる。
 
捨松はすでにアメリカに渡っていた兄の[[山川健次郎]]の知人の仲介で、[[コネチカット州]][[ニューヘイブン (コネチカット州)|ニューヘイブン]]の[[会衆派]]の牧師[[レオナード・ベーコン]] (Leonard Bacon) 宅に寄宿し、そこで4年近くを一家の娘同様に過ごして英語を習得した{{sfn|秋山ひさ|1985|p=88-89}}。健次郎はアメリカに馴染みすぎると恐れ、日本語も欠かさず勉強するように命じたが、捨松はこれが最も難しかったと回想している{{sfn|秋山ひさ|1985|p=89}}。また当時、健次郎はキリスト教を嫌っており、礼拝に出ることはかろうじて許可したものの、入信させないように依頼した{{sfn|秋山ひさ|1985|p=89}}が、捨松はベーコン牧師より1876年<ref name=":1">{{Cite web|title="Princess Oyama dies of influenza" : Image 7 of The sun (New York [N.Y.]), February 24, 1919|url=https://www.loc.gov/resource/sn83030431/1919-02-24/ed-1/?q=Princess+Oyama&sp=1|website=Library of Congress, Washington, D.C. 20540 USA|accessdate=2021-02-17|author=The Sun|date=1919-02-24}}</ref>にキリスト教の[[洗礼]]を受ける{{refnest|group="注釈"|帰国後は[[日本組合基督教会]]の[[小崎弘道]]が牧師を務める[[霊南坂教会]]に会員になる<ref>内海健寿「大山捨松」『日本キリスト教歴史大事典』237頁</ref>。}}。
 
このベーコン家の14人兄妹の末娘が、捨松の生涯の親友の一人となる[[アリス・ベーコン]]である{{sfn|秋山ひさ|1985|p=92}}。捨松はその後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を経て、永井しげとともに[[ニューヨーク州]][[ポキプシー (ニューヨーク州の町)|ポキプシー]]にある[[ジーン・ウェブスター]]や[[エドナ・ミレイ]]など、アメリカを代表する女性知識人を輩出した[[ヴァッサー大学]]に進んだ{{sfn|秋山ひさ|1985|p=92}}。しげが専門科である音楽学校を選んだのに対し、この頃までに英語をほぼ完璧に習得していた捨松は通常科大学に入学した。
 
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=== アメリカからの帰国 ===
[[File:Sutematsu Yamakawa formal.jpg|thumb|200px|帰国報告に参内した捨松]]
捨松が再び日本の地を踏んだのは明治15年(1882年)11月22日、出発から11年目のことだった。新知識を身につけて故国に錦を飾り、今後捨松日本における赤十字社の設立や女子教育の発展に専心しようと、意気揚々と帰国した捨松だら生理学や体操を教えたいという希望を持ていたが{{sfn|秋山ひさ|1985|p=96}}、彼女を待っていたのは失望以外のなにものでもなかった。
 
北海道開拓使は明治15年(1882年)2月に廃止され、[[東京女学校]]が明治10年に廃止されるなど、政府の女性教育に対する動きが著しく鈍くなっていた{{sfn|秋山ひさ|1985|p=97}}。このため帰国した捨松ら女子留学生に対して政府からの連絡は何もなかった{{sfn|秋山ひさ|1985|p=96-97}}。
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=== 恋愛結婚 ===
[[File:Iwao Oyama in his middle age.jpg|thumb|left|200px|大山巌]]
ちょうどその頃、後妻を捜していたのが[[参議]][[陸軍卿]]・[[伯爵]]となっていた大山巌だった。大山は同郷の[[吉井友実]]の長女・沢子と結婚して3人の娘を儲けていたが、沢子は三女を出産後に[[産褥]]で死去していた。大山の将来に期待をかけていた吉井は、我同然に可愛毎回違うことを気にしいた婿おり、身内ため、後添え任せたほうが良いなる女性を探要望求めはじめる。そこで白羽姉有馬國子世話をすることになった捨松だ、女性に学問はいらないという考え方の國子の教育方針は巌と合わなかった{{<ref name="大山格20201223" />。穏便に事態を収拾するには、巌が再婚することが必出典|dateであった<ref name=2021年2月}}"大山格20201223" />
 
当時の日本陸軍はフランス式兵制からドイツ式兵制への過渡期という難しい時期にあった。フランス語やドイツ語を流暢に話す大山は、列強の[[外交官]]や[[武官]]たちとの膝詰め談判に自らあたることのできる、陸軍卿としては当時最適の人材だったが、この時代の外交の大きな部分を占めていたのは夫人同伴の夜会や舞踏会だった。アメリカの名門大学を成績優秀で卒業し、やはりフランス語やドイツ語に堪能だった捨松は、その大山の夫人として最適だった。一般に大山が捨松を見初めたと言われるが、先に捨松に着目していたのは吉井だった<ref name="大山格20201223" />
 
吉井のお膳立てで大山が捨松に初めて会ったのは、[[益田孝]]邸で行われた永井繁子と瓜生外吉の結婚披露宴の余興で「[[ベニスの商人]]」を捨松が演じていたときとも、同じく益田邸で梅子らとともに捨松がテニスをしている姿であったともいう{{sfn|秋山ひさ|1985|p=96-97}}。いずれにせよ大山は一目で恋に落ちる。自他共に認める西洋かぶれだった大山は、パリの[[マドモアゼル]]をも彷彿とさせる捨松の洗練された美しさにすっかり心を奪われてしまった。
 
しかし吉井友実を通じて大山からの縁談の申し入れを受けた長兄の山川浩は、仇敵・薩摩人との縁談が旧会津藩士に与える悪印象を恐れたことと、上司に当たる巌との縁組が出世のために妹を差し出したと言われることを恐れ、即座に断ってしまう{{sfn|秋山ひさ|1985|p=98}}。しかし大山も粘った。吉井から山川家に断られたことを知らされると、今度は従弟の[[西郷従道]]が山川家に訪れて徹夜で説得にあたった{{sfn|秋山ひさ|1985|p=98}}。兄・浩の「山川家は賊軍の家臣ゆえ」という逃げ口上も「大山も自分も逆賊([[西郷隆盛]])の身内」という従道には通じなかった<ref name="大山格20201223" />。従道が連日説得にあたるうちに、大山の誠意が山川家にも伝わ態度も軟化し、最終的にはきれなくなったから「本人次第」という回答の意志引き出聞くこととした{{要出典sfn|date秋山ひさ|1985|p=2021年2月98}}。
 
これを受けた捨松は「(大山)閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」とデートを提案し、大山もこれに応じた<ref name="大山格20201223" />。捨松は初めは大山の強い[[薩摩弁]]がさっぱりわからず、巌も片言の[[会津弁]]をしゃべる捨松の言葉が理解できなかったものの[[フランス]]で話し始めるととたんに会話がはずんだ<ref name="大山格20201223" />。2人には親子ほどの歳の開きがあったが<ref group="注釈">このとき捨松24歳、大山は42歳だった。</ref>、デートを重ねるうちに捨松は大山の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれていった。交際を初めてわずか3ヵ月で、捨松は大山との結婚を決意した。この頃アリスに書いた手紙には捨松は、「いろいろ考えた末結婚することにします。私がつける仕事はなさそうだし、それならば彼と結婚してその立場から女性のためになにかできるのではと思うのですが(後略)」{{sfn|秋山ひさ|1985|p=98}}「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」と記している。
 
明治16年([[1883年]])11月8日、大山巌と山川捨松との婚儀がおごそかに行われた。その1ヵ月後、完成したばかりの[[鹿鳴館]]<ref group="注釈">鹿鳴館落成祝宴は明治16年11月28日、大山家結婚披露宴は2週間後の同年12月12日のことだった。</ref>で大山夫妻の盛大な結婚披露宴が催される<ref group="注釈">このときの招待状は全文がフランス語で書かれており、人々を仰天させたという。</ref>。
会場は千人を超える招待者でごった返し、通常なら新婦は気が動転して会話もままならないであろう状況でも、気さくにふるまう捨松には誰もが目を止め、話しかけ、またその話に耳を傾けた{{要出典|date=2021年2月}}。しかし、会津戦争と[[西南戦争]]で因縁を重ねた会津人と薩摩人の婚姻は、郷里の人々にとって受け入れられるものではなかった。二人の曾孫大山格はそれ以降、大山家は薩摩と会津の両方とも親戚づきあいが絶えたとしている<ref name="大山格20201223" />
 
=== 「鹿鳴館の貴婦人」と慈善活動 ===
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3日間で予想を大幅に上回る収益をあげ、その全額(当時の金額で1万6000円){{sfn|秋山ひさ|1985|p=99}}を共立病院へ寄付して高木院長を感激させている。この資金をもとに、2年後には日本初の看護婦学校・[[慈恵看護専門学校|有志共立病院看護婦教育所]]が設立された。
 
明治20年(1887年)に日本赤十字社の後援団体の立ち上げにおいて「日本赤十字篤志婦人会」の発起人となった{{sfn|秋山ひさ|1985|p=100}}。[[日清戦争|日清]]・[[日露戦争|日露]]の両戦争では、大山巌が[[参謀本部 (日本)|参謀総長]]や[[満州軍 (日本軍)|満州軍総司令官]]として、国運を賭けた大勝負の戦略上の責任者という重責を担っていた<ref>{{Cite web|title="Japanese elder statesmen" : Image 7 of The Washington herald (Washington, D.C.), April 20, 1908|url=https://www.loc.gov/resource/sn83045433/1908-04-20/ed-1/?q=Princess+Oyama&sp=1|website=Library of Congress, Washington, D.C. 20540 USA|accessdate=2021-02-17|author=Frederic J. Haskin, ''The Washington Herald ''|date=1908-04-20}}</ref>。捨松はその妻として、銃後で寄付金集めや婦人会活動<ref>{{Cite web|title="In the world of society" : Image 7 of Evening star (Washington, D.C.), January 4, 1909|url=https://www.loc.gov/resource/sn83045462/1909-01-04/ed-1/?q=Princess+Oyama&sp=1|website=Library of Congress, Washington, D.C. 20540 USA|accessdate=2021-02-17|author=Evening Star (Washington, D.C.)|date=1909-01-04|quote=『ジャパン・クロニクル』紙が伝えるところによると、アメリカ海軍太平洋艦隊所属ニュージャージー号のサザーランド艦長夫人は夫君に先んじて日本に到着し、日本海軍軍人の戦争未亡人を支援する団体に100円を寄付した。同団体代表である大山夫人は心づくしの歓迎会を開き、主賓のサ夫人は歓待に心を動かされたという。ほぼ1ヵ月前に神戸から帰国するとき、たとえようもない寂しさを感じたとサ夫人は語った由。}}</ref>に時間を割くかたわら、看護婦の資格<ref name=":1" />を生かして[[日本赤十字社]]で戦傷者の看護もこなし、政府高官夫人たちを動員して包帯作りなどの活動も行った{{sfn|秋山ひさ|1985|p=100}}。またアメリカの赤十字にも寄付金を送る<ref name=":1" />かたわら、積極的にアメリカの新聞に投稿を行い、日本置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えた{{sfn|秋山ひさ|1985|p=100}}。日本軍の総司令官の妻がヴァッサー大卒というもの珍しさも手伝って、アメリカ人は捨松のこうした投稿を好意的に受け止め、これがアメリカ世論を親日的に導くことにも役立った。アメリカで集まった義援金はアリス・ベーコンによって直ちに捨松のもとに送金され、さまざまな慈善活動に活用された{{要出典|date=2021年2月}}。
 
近代日本におけるチャリティー企画やボランティア活動の草分けは、この大山捨松である{{要出典|date=2014年12月}}。
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=== 晩年と死 ===
大正5年([[1916年]])には嫡孫[[大山梓|梓]]が誕生したが、その直後より巌は体調を崩し療養生活に入る。長年にわたる[[糖尿病|糖尿]]の既往症に胃病が追い討ちをかけていた。内大臣在任のまま同年12月10日に満75歳で死去した<ref>{{Cite web|title="Field Marshal Oyama dies in his 74th year" : Image 13 of Evening star (Washington, D.C.), December 11, 1916|url=https://www.loc.gov/resource/sn83045462/1916-12-11/ed-1/?q=Princess+Oyama&sp=1|website=Library of Congress, Washington, D.C. 20540 USA|accessdate=2021-02-17|author=Evening Star|date=1916-12-11}}</ref>
 
巌の[[国葬]]後、捨松は公の場にはほとんど姿を見せず、大山家の資産運用などに専念することとなった{{sfn|秋山ひさ|1985|p=100}}。大正8年([[1919年]])、津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は自らが先頭に立ってその運営を取り仕切った。病気療養を理由に津田は退任を決め、捨松は紆余曲折を経てその後任を指名したが、風邪気味の体を押して後任のもとに依頼にでたことがたたり{{sfn|秋山ひさ|1985|p=102}}、新塾長の就任を見届けた翌日、倒れてしまう。当時、世界各国で流行していた[[スペインかぜ]]をわずらい、そのまま回復することなく、2月17日に58歳で没した{{sfn|秋山ひさ|1985|p=102}}。<ref>{{Cite web|title="Japanese princess, educated here, dies" : Image 3 of The Washington times (Washington [D.C.]), February 25, 1919, (FINAL EDITION)|url=https://www.loc.gov/resource/sn84026749/1919-02-25/ed-1/?q=Princess+Oyama&sp=1|website=[[アメリカ議会図書館|Library of Congress]], Washington, D.C. 20540 USA|accessdate=2021-02-17|author=[[ワシントン・タイムズ|The Washington Times]] (Washington [D.C.])|date=1919-02-25}}</ref>
 
== 逸話 ==
=== 『不如帰』と風評被害 ===
[[File:Hototogisu first edition cover cropped.jpg|thumb|200px|『不如帰』初版本]]
大山巌は先妻との間に娘が3人いた。長女の信子は[[結核]]のため20歳で早世したが、彼女をモデルとして[[徳冨蘆花]]が書いた小説が、「あああ、人間はなぜ死ぬのでしょう! 生きたいわ! 千年も万年も生きたいわ!」の名ゼリフが当時の[[流行語]]にまでなったベストセラー『[[不如帰 (小説)|不如歸]]』である<ref>[[徳冨蘆花]]の小説『不如歸』は単行本になるまえに新聞小説として[[國民新聞]]に連載された。明治31年([[1898年]])11月29日から同32年([[1899年]])5月24日まで、広く読まにかけて[[國民新聞]]に連載された。1932年(昭和7年)の段階で百数十版を重ね、[[片岡良一]]は[[尾崎紅葉]]の『[[金色夜叉]]』とともに「近代日本の二大大衆小説」と評している{{harv|神立春樹|1991|p=36}}</ref>。
 
蘆花によれば、この小説はある女性が蘆花に話したことが元になっている。蘆花の夫人愛子によると、この女性は大山巌の副官の未亡人福家安子であり、信子が肺結核のため[[三島彌太郎]]と離縁されたこと、彌太郎が離婚を悲しんだこと、巌が怒って信子を引き取り邸内に療養室を建てて療養させたこと、最後に家族旅行を行ったこと、信子の葬儀の際に三島家から送られた花を突き返したことなどが述べられたという{{sfn|神立春樹|1991|p=34}}。
 
小説の中で主人公の浪子は結核をわずらうと、夫との幸せな結婚生活を姑によって引き裂かれ、実家に戻される。すると今度は薄情な継母に疎まれ、父が建ててくれた離れで寂しくはかない生涯を終える。ところが読者には、この小説に描かれた冷淡な継母のモデルは捨松だと信じて嫌悪感を抱いた者が多く、誹謗中傷の言葉を連ねた匿名の投書を受け取ることすらあったという。舞台作品が制作されるとその公開に捨松は抗議しており<ref name=":0" />、晩年までそうした風評に悩んでいたという。
 
実際は小説とは異なり{{sfn|秋山ひさ|1985|p=100}}、看護師としての経験から対策を知っていた捨松が、家族への感染を防ぐため生活空間を分けたものであり、隔離した信子に対しては献身的に看護している。巌が日清戦争の戦地から戻ると、信子の小康を見計らって親子3人水入らずで関西旅行までしている。捨松は巌の連れ子たちからも「ママちゃん」と呼ばれて慕われていた。家庭は円満で、実際には絵に描いたような良妻賢母だったという{{要出典|date=2021年2月}}。
 
{{要出典範囲|しかし蘆花からこの件に言及が行われたのは『不如帰』上梓から19年を経た大正8年(1919年)、捨松が急逝する直前のことだった。雑誌『婦人世界』で盧花は「『不如歸』の小說は姑と繼母を惡者にしなければ、人の淚をそゝることが出來ぬから誇張して書いてある」と認めた上で、捨松に対しては「お氣の毒にたえない」と述べている|date=2021年2月|title=『婦人世界』は『婦人界』では?}}。
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=== 洋風夫妻 ===
[[File:Iwao and Sutematsu Oyama.jpg|thumb|right|200px|晩年の大山夫妻]]
大山巌・捨松夫妻は[[おしどり夫婦]]として有名だった。捨松は人前でも夫を「イワオ」と呼び捨てにし、巌もそれを当然のように受け入れた<ref name="大山格20201223" />。熟年になってから喧嘩をしたこともあったが、[[牛臥山 (静岡県)|牛臥山]]の標高が何メートルであるかという争いであり、どちらが数学的に正しいかと次男の柏に判定を求めたという<ref name="大山格20201223" />。
大山巌・捨松夫妻は[[おしどり夫婦]]として有名だった。
 
ある時新聞記者から「閣下はやはり奥様の事を一番お好きでいらっしゃるのでしょうね」と下世話な質問を受けた捨松は、「違いますよ。一番お好きなのは児玉さん(=[[児玉源太郎]])、2番目が私で、3番目が[[ビーフステーキ]]。[[ステーキ]]には勝てますけど、児玉さんには勝てませんの」と言いつつ、まんざらでもないところを見せている{{要出典|date=2021年2月}}。「いえいえそんなこと」などと言葉を濁さず、機智に富んだ会話で逆に質問者の愚問を際立たせてしまう話術も、当時の日本人にはなかなか真似のできないものだった。
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== 参考文献 ==
主な執筆者の姓の50音順、脚注あり。
{{参照方法|date=2021年2月}}
*
*{{Cite journal|和書|author=秋山ひさ |authorlink=秋山ひさ|title=明治初期女子留学生の生涯 -山川捨松の場合-|date=1985|publisher=神戸女学院大学研究所 |journal=論集 |volume=31|issue=3 |pages=81-104|ref= harv|issn=0389-1658}}
*
*{{Cite book|和書|title=金星の追憶 回顧八十年|year=1989|publisher=鳳書房|pages={{要ページ番号|date=2021年2月}}|author=大山柏|author-linkauthorlink=大山柏|seriesid={{全国書誌番号|volume=|chapter=母の生涯と我が思い出90016572}}}}
*
* {{Cite journal |和書|author=秋山ひさ神立春樹 |authorlink=秋山ひさ神立春樹|title=明治初期女子留学生の生涯徳富蘆花『不如帰』における時代描写 -山川捨松の場合-|date=19851991 |publisher=神戸女学院岡山大学研究所経済学会 |journal=論集岡山大学経済学会雑誌 |volume=3123 |issue=31 |pages=8127-104|ref= harv53|issn=03890386-16583069|ncid=AN00032897|ref= harv}}
*{{Cite book|和書|title=鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生|year=1988|publisher=中央公論社|author=久野明子|isbn=978-4120017506|id={{全国書誌番号|89014104}}}}
*{{Cite book|和書|title=金星の追憶 回顧八十年|year=1989|publisher=鳳書房|pages={{要ページ番号|date=2021年2月}}|author=大山柏|author-link=大山柏|series=|volume=|chapter=母の生涯と我が思い出}}
**{{Cite book|和書|title=鹿鳴館の貴婦人 大山捨松―日本初の女子留学生|year=1993|publisher=中央公論社|series=中公文庫|author=久野明子|isbn=978-4122019997|id={{全国書誌番号|93061030}}}}
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*{{Cite book|和書|title=鹿鳴館の貴婦人 大山捨松|year=1988|publisher=中央公論社|author=久野明子|pages={{要ページ番号|date=2021年2月}}}}{{ISBN2|4122019990}}<ref name=":0" /><ref>{{Cite web|title=〈久野明子著・鹿鳴館の貴婦人 大山捨松〉|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2792840|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-02-16|publisher=国立国会図書館デジタルコレクション − 国立国会図書館内公開|work=『母の友』7月号(通号434)|author=[[荒このみ]]|pages=94-95 (コマ番号0048.jp2)|doi=10.11501/2792840}}</ref><ref>{{Cite web|title=列伝 大山捨松 看護の発展にも努めた鹿鳴館の貴婦人 / 久野明子|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3477464|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-02-16|publisher=国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館内限定公開|work=『Nurse eye = ナースアイ』第11号|pages=64-71 (コマ番号0034.jp2-)|doi=10.11501/3477464}}</ref><ref>{{Cite journal|author=東えりか|year=2017|title=時代を切り開いた女性イノベーターたち[久野明子著『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 : 日本初の女子留学生』,ワリス・ディリー著、武者圭子訳『砂漠の女ディリー』,プーラン・デヴィ著、武者圭子訳『女盗賊プーラン 上・下』] (特集 このノンフィクションが凄い! ; 読む)|journal=『Kotoba』集英社|number=第27号:2017.春|pages=94-97}}</ref>。のち中公文庫に改題、1993年、{{全国書誌番号|93061030}}。
*{{Cite web|title=列伝 大山捨松 看護の発展にも努めた鹿鳴館の貴婦人 |author=久野明子|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3477464|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-02-16|publisher=国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館内限定公開|work=『Nurse eye = ナースアイ』第11号|pages=64-71 (コマ番号0034.jp2-)|doi=10.11501/3477464}}
*{{cite book|和書|author=児島襄|title=大山巖|volume=1|publisher=文藝春秋|series=文春文庫|year=1985|ref={{sfnref|児島|1985}}|pages=281-296|author-link=児島襄}}{{ISBN2|978-4-16-714119-6}}。
*{{Cite web|title=〈久野明子著・鹿鳴館の貴婦人 大山捨松〉|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2792840|website=dl.ndl.go.jp|accessdate=2021-02-16|publisher=国立国会図書館デジタルコレクション − 国立国会図書館内公開|work=『母の友』7月号(通号434)|author=荒このみ|autherlink=荒このみ|pages=94-95 (コマ番号0048.jp2)|doi=10.11501/2792840}}
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*{{Cite journal|author=東えりか|year=2017|title=時代を切り開いた女性イノベーターたち[久野明子著『鹿鳴館の貴婦人 大山捨松 : 日本初の女子留学生』,ワリス・ディリー著、武者圭子訳『砂漠の女ディリー』,プーラン・デヴィ著、武者圭子訳『女盗賊プーラン 上・下』] (特集 このノンフィクションが凄い! ; 読む)|journal=『Kotoba』集英社|number=第27号:2017.春|pages=94-97}}
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== 脚注 ==
=== 注釈 ===
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<references group="注釈" />
=== 出典 ===
{{脚注ヘルプ}}{{Reflist|33em}}{{reflist}}
 
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Ōyama_Sutematsu}}
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*アリス・ベーコン『明治日本の女たち』 矢口祐人・砂田恵理加 訳、[[みすず書房]]〈大人の本棚〉、2003年
*ヴァッサー大学図書館特別コレクション「[https://specialcollections.vassar.edu/collections/manuscripts/findingaids/oyama_sutematsu.html 大山〈山川〉捨松関連資料集]」(Sutematsu Yamakawa Oyama Papers){{En icon}} 受贈資料の内訳はアリス・ベーコン宛書簡を1994年に姪孫のジーン・ブライアント Jean Bryant より受贈、そのほか複数の寄贈者より資料を受ける。2009年に追加の受贈あり、資料目録はウェブで公開「''Guide to the Sutematsu Yamakawa Oyama Papers, 1872-1983 (bulk 1882-1919)''」。資料はシリーズIからIIIに3分類して管理。
**「1:捨松と家族が交わした書簡、アリス・ベーコン宛の書簡(1882-1919)」
, Archives and Special Collections Library, Vassar College Libraries.
 
==== Acquisition Information ====
Gift of various donors. Letters from Oyama and other correspondents to Alice Bacon given in 1994 by , a grandniece of Alice Bacon.
 
Additions made May 2009 (M2009-011)
**資料はシリーズIからIIIに3分類して管理。
**「1:捨松と家族が交わした書簡、アリス・ベーコン宛の書簡(1882-1919)」
**「2:日本で発行された雑誌や新聞などから、生前と没後の捨松に言及したページの切り抜き」
**「3:その他。写真、ヴァッサー在学中の成績簿、大山家の結婚披露宴招待状とサイン入りカード、晩餐会の招待者名簿ほか」。