フリードリヒ・ツー・ヴィート

フリードリヒ・ツー・ヴィートFriedrich Fürst zu Wied, 1872年6月27日 - 1945年6月18日)は、ドイツシュタンデスヘル。ヴィート侯(1907年 - 1919年)。

フリードリヒ・ツー・ヴィート
Friedrich zu Wied
ヴィート侯
1910年
在位 1907年 - 1919年

出生 (1872-06-27) 1872年6月27日
ドイツの旗 ドイツ国
プロイセン王国の旗 プロイセン王国ノイヴィート
死去 (1945-06-18) 1945年6月18日(72歳没)
連合国軍占領下のドイツ、ノイヴィート
配偶者 パウリーネ・フォン・ヴュルテンベルク
子女 ヘルマン
ディートリヒ
家名 ヴィート家
父親 ヴィート侯ヴィルヘルム・アドルフ
母親 マリー・ファン・オラニエ=ナッサウ
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生涯

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ヴィート侯ヴィルヘルム・アドルフとその妻でオランダ王子フレデリックの娘であるマリーの間の第1子、長男として生まれた。全名はヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘルマン・オットー・カール(Wilhelm Friedrich Hermann Otto Karl Fürst zu Wied)。伯母のエリーザベトはルーマニア王カロル1世の妃であり、弟のヴィルヘルムは1914年に短期間ながらアルバニア公国の元首を務めた。1907年に父が死ぬとヴィート侯家の家督を継承したが、ドイツ革命に伴う君主制の崩壊により、貴族としての身分と諸特権を失った。

長男で後継ぎのヘルマンは第2次世界大戦中の1941年に東部戦線ジェシュフで戦死した。このため1945年にフリードリヒが死ぬと、侯爵家の家督はわずか14歳の孫フリードリヒ・ヴィルヘルムが継いでいる。

結婚と子女

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1898年10月29日にシュトゥットガルトにおいて、ヴュルテンベルクヴィルヘルム2世の娘パウリーネと結婚した[1] 。夫妻は間に2人の息子をもうけた。

  • ヘルマン・ヴィルヘルム・フリードリヒ(1899年 - 1941年) - 1930年、シュトルベルク=ヴェルニゲローデ女伯爵マリア・アントニアと結婚
  • ディートリヒ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・カール・パウル(1901年 - 1976年) - 1928年、ユーリア・グローテ女伯爵と結婚
 
フリードリヒと妻パウリーネ(最前列)の結婚記念写真、1898年10月撮影

脚注

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  1. ^ C. Arnold McNaughton, The Book of Kings: A Royal Genealogy, in 3 volumes (London, U.K.: Garnstone Press, 1973), volume 1, page 226. Hereinafter cited as The Book of Kings

外部リンク

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