バヤン・バートル
バヤン・バートル(モンゴル語: Bayan Baγatur,生没年不詳)とは、モンゴル帝国に仕えた将軍の一人。『元史』における漢字表記は拜延八都魯(bàiyánbādōulŭ)。
概要
編集バヤンはジャライル部の出身で、幼い頃からチンギス・カンに仕えて「バートル(勇士)」の称号を与えられたという。1235年には第2代皇帝オゴデイの命によってジャライル兵1600人を率いてタガイ・ガンポとともに関西に侵攻した。1253年には第4代皇帝モンケの命によって汪世顕とともに利州城を創立した。翌1254年には南宋軍を鹿角寨に破り、敵軍の物資を奪った。1257年には都元帥ネウリンに従って成都攻略に加わり、モンケより陥落後は成都の鎮守を任命された。その後、哈丹・朶歓・脱脱らが大理遠征から帰還したのを迎えたとき、南宋軍と遭遇戦となったが勝利を収めた。1261年にはネウリンによってその功績が報告され、アウルクの長官とされた[1]。
バヤンが老いて現役を退くと、その息子の外貌台、孫の兀渾察が後を継いだ[2]。
脚注
編集- ^ 『元史』巻123列伝10拜延八都魯伝,「拜延八都魯、蒙古札剌台氏、幼事太祖、賜名八都魯。歳乙未、太宗命領札剌台軍一千六百人、与塔海甘卜同征関西、有功。癸丑、憲宗命与阿脱・総帥汪世顕創立利州城。甲寅、領兵紫金山、破宋軍鹿角寨、奪其軍餉器械。丁巳、従都元帥紐璘城成都、及領兵囲雲頂山、下其城。帝親征、元帥紐璘既進兵、渉馬湖江、留拜延八都魯鎮成都、降属県諸城、得其民、悉撫安之、賜黄金五十両・衣九襲。諸王哈丹・朶歓・脱脱等征大理還、命拜延八都魯領兵迎之。道過新津寨、与宋潘都統遇、戦敗之、殺獲甚衆。中統二年、元帥紐璘上其功、授蒙古奥魯官」
- ^ 『元史』巻123列伝10拜延八都魯伝,「子外貌台、孫兀渾察。至元六年、拜延八都魯告老、兀渾察代其軍、従行省也速答児征諸国有功。十六年、従大軍征斡端、又有功、賞銀五十両。二十一年、諸王朮伯命兀渾察往乞失哈里之地為游撃軍。時敵軍二千餘、兀渾察以勇士五十人与戦、擒其将也班胡火者以献。王壮之、以其功聞、賞銀六百両・鈔四千五百貫、授蒙古軍万戸、賜三珠虎符。三十年、以疾卒。次子襲授曲先塔林左副元帥、尋卒。弟塔海忽都襲、升鎮国上将軍都元帥、改授四川蒙古副都万戸。至治二年、以疾退。子孛羅帖木児襲」
参考文献
編集- 『元史』巻123列伝10拜延八都魯伝