石黒清
経歴
編集三井鉱山砂川鉱業所(砂川炭鉱)の労働組合、砂川炭鉱労働組合(砂労)の出身者[2]。高野実の側近の1人[3]。1949年砂労書記長、1950年同副組合長[2]。1951年9月労働者同志会の結成に参加(当時炭労事務局次長)。1953年に労働者同志会が高野派と反高野派に分裂すると、全港湾の兼田富太郎、日教組の平垣美代司らとともに労働者同志会を離れた[4]。のち総評の組織部長、政治部長、調査部長などを歴任[2]。1954年6月世界平和評議会主催の平和大集会(ストックホルム)に日本代表の一員として参加[注 1][5]。同年の日鋼室蘭争議を高野実総評事務局長とともに指導[6]。1956年5月の炭労大会で中執選挙に立候補したが、太田派とみられる候補に敗れ落選した[注 2][7]。1968年時点では町議会議員を務めていた[8]。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ CiNii 図書 - 最低賃金制とは?
- ^ a b c 島西智輝「炭鉱労働組合運動における大衆闘争の形成に関する考察――戦後復興期の三井鉱山砂川炭鉱労働組合の事例を中心に」『三田商学研究』第4巻第6号、2005年2月
- ^ 高島喜久男『戦後労働運動私史 第2巻 1950-1954』第三書館、1993年
- ^ 労働運動史編纂委員会編『総評労働運動の步み』総評資料頒布会、1975年
- ^ 法政大学大原社会問題研究所編『日本労働年鑑 第28集 1956年版』労働旬報社、1970年
- ^ 竹村民郎、稲賀繁美「一九五〇年代の「職場」から生活に根差した「歴史」が立ち上がる (PDF) 」『図書新聞』第3349号、2018年4月28日
- ^ 南整『日本の人脈――労働運動のあゆみ』日刊労働通信社、1973年
- ^ 石黒清「投書 ヤマを守る道は死を拒否する抵抗だ (PDF) 」『新左翼』第15号、1968年12月25日