因幡田作
奈良時代の人物
経歴
編集因幡国造氏の一族で、因幡国造浄成女同様、因幡国高草郡(鳥取市中・西部一帯)の出身と思われる[1]。
初見は北厨坊という施設の宿直を務めた下級官人の一人として、聖武朝の天平15年から20年頃(743年から748年)のものと推測される、平城京東二坊坊間大路西側溝出土の木簡に登場している。以後、淳仁朝の天平宝字5年(761年)、東大寺奉写一切経所校生として出仕[2]、同7年(763年)から8年(764年)にかけて乾政官史生として、奉写御執経所へ出仕している[3]。称徳朝の神護景雲3年(769年)3月、奉写一切経司主典、従七位上とあるが[4]、同年6月にも主典・従八位上と記されている[5]。恐らくこれは誤りだろうと思われる。宝亀2年(771年)閏3月も同じく、主典、従七位上である[6]。これを最後に記録から消えるため、死亡したか、郡司となるべく帰国したものと思われる。
官歴
編集『大日本古文書』による