武藤勝彦 (官僚)
陸軍軍人、内務官僚
武藤 勝彦(むとう かつひこ、1895年(明治28年)2月7日 - 1966年(昭和41年)8月16日)は、参謀本部陸地測量部の測量官を務めた陸軍技師、内務官僚。地理調査所長を経て初代国土地理院長を務めた。
経歴
編集埼玉県本庄市出身。旧制熊谷中学[1]、第八高等学校から大学予科第二部乙類[2]を経て1922年(大正11年)3月31日東京帝国大学理学部物理学科卒業[3]後、同年9月11日山形高等学校教授に任官(高等官七等)[4]。陸軍工兵曹長を経て、1925年(大正14年)5月18日陸地測量師に任官[5]し陸地測量部付となる[6]。1926年(大正15年)3月31日陸軍工兵少尉に昇進し[7]、1930年(昭和5年)4月1日後備役編入となる[8]。1938年(昭和13年)8月16日理学博士(京都帝国大学)[9]。
終戦を受け陸地測量部解体後、1945年(昭和20年)12月27日内務技師(高等官二等)として地理調査所長を命ぜられ[10]、1960年(昭和35年)7月1日地理調査所から改称した国土地理院の初代院長に就任。1961年(昭和36年)3月31日に国土地理院長を退官後は日本道路公団顧問、日本測量協会顧問を経て、日本測量協会会長を務めた。
栄典
編集- 1922年(大正11年)9月30日 - 従七位[13]
- 1928年(昭和3年)7月16日 - 正七位[14]
- 1933年(昭和8年)7月1日 - 従六位[15]
- 1934年(昭和9年)4月29日 - 昭和六年乃至九年事変従軍記章[16]
- 1937年(昭和12年)11月9日 - 勲六等瑞宝章[17]
- 1938年(昭和13年)7月15日 - 正六位[18]
- 1939年(昭和14年)6月17日 - 勲五等瑞宝章[19]
- 1940年(昭和15年)11月10日 - 紀元二千六百年祝典記念章[20]
- 1941年(昭和16年)12月1日 - 従五位[21]
- 1965年(昭和40年)11月3日 - 勲二等旭日重光章[22]
- 1966年(昭和41年)8月16日 - 正四位[11]
- 1966年(昭和41年)8月16日 - 従三位[12]
親族
編集著作
編集- 武藤勝彦『地圖の話』岩波書店、東京〈少國民のために〉、1942年。
脚注
編集- ^ 埼玉県立熊谷中学校一覧国立国会図書館2024年10月12日閲覧
- ^ 『官報』第897号、大正4年7月28日。
- ^ 『官報』第2935号、大正11年5月17日。
- ^ 『官報』第3035号、大正11年9月12日。
- ^ 『官報』第3819号、大正14年5月19日。
- ^ 『官報』第3820号、大正14年5月20日。
- ^ 『官報』第4079号、大正15年4月1日。
- ^ 『官報』第988号、昭和5年4月18日。
- ^ 『官報』第3568号、昭和13年11月25日。
- ^ 『官報』第5710号、昭和21年1月28日。
- ^ a b 『官報』第11909号、 昭和41年8月23日。
- ^ a b 『官報』第11910号、 昭和41年8月24日。
- ^ 『官報』第3052号、大正11年10月2日。
- ^ 『官報』第531号、昭和3年10月1日。
- ^ 『官報』第1954号、昭和8年7月7日。
- ^ 『官報』第2771号附録、昭和11年3月31日。
- ^ 『官報』第3355号、昭和13年3月12日。
- ^ 『官報』第3476号、昭和13年8月4日。
- ^ 『官報』第3737号、昭和14年6月22日。
- ^ 『官報』第4456号付録、昭和16年11月14日。
- ^ 『官報』第4556号、昭和17年3月19日。
- ^ 『官報』第11670号、昭和40年11月4日。
外部リンク
編集- 坪川家恒「武藤勝彦氏を偲ぶ」『天文月報』第59巻第12号、1966年、263頁。
官職 | ||
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先代 地理調査所長から改称 |
国土地理院長 1960年 - 1961年 |
次代 奥田豊三 |