ブヤン (ウラナラ氏)
ブヤン(満洲語:ᠪᡠᠶᠠᠨ, 転写:Buyan[1], 漢文:布顏)は、ウラナラ氏、フルン (扈倫) 国主のナチブルの昆孫。
ハダ建国に乗じてウラ・ホトン (烏拉城) 拡張と城砦の増設を進め、ウラ・グルン (烏拉国) を樹立して初代国主に即位した。
在位中は国内の政務を整え、対外的には従兄弟のワン(萬、王台) が統治するハダ・グルンに従属した。
ウラナラ氏 | |||||||
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仮名 | ブヤン[2] | ||||||
満文 | ᠪᡠᠶᠠᠨ | ||||||
転写 | Buyan | ||||||
漢語(繁) | 布顏 | ||||||
拼音 | Bùyán | ||||||
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略歴 編集
ナチブルが樹立したフルン・グルンは、モンゴルによる侵攻や内部紛争などに由り、諸部間の連盟が父のタイランの代までに崩壊していた。[3]
ブヤンは精力的にフルン諸部の統治を図り、フルン・グルンの再興を期してウラ・ホンニ・ホトン (烏拉洪尼城)[4] (後、ウラ・ホトンに改称) の拡張を進めた。[5][6][7]既存の城砦を基礎に強化された「内羅城」と、南・北・東の三面に新造され外周6,000mに達した「外羅城」(外城) で城廓を強化し、更に城西のウラ・ビラ (ウラ河) を自然の水堀に利用したことで、ウラ・ホトンの守備力は強固なものとなった。[8]ウラ・ホトンは版築によって造られている。土の突き固めにはブヤン自身も加わり、後世「挖河背土筑古城」(河を挖り土を背ひて筑きし古城) と呼ばれたウラ・ホトンが「東方第一大城」と評されるに為の基礎を築いた。[8]
時まさにハダが興隆し、萬 (王台) の勢力は隆盛を極めて諸部を悉く従属させていた。ブヤンは遂に国号としてのフルンを廃し、1561年にウラ・グルンを樹立した。[8]当時のウラは僅かに周辺の城塞数箇所を支配下に収めるに過ぎず、首都であるウラ・ホトンから10里(5,760m) 隔てた伯父タイアン(太安)のフルハ(富爾哈)城 (現吉林省吉林市) を前衛基地とし、都城の北部30里に位置するサルダ(薩爾達)城は大伯父クサン・サング(庫桑桑古)の子孫が鎮守していた。[8]この外にイハン・アリン城、シラン(西蘭)城、グワントゥン(官通)城、ハダ(哈達)城、オモ(鄂漠)城、ゴド(郭多)城、スンジャタイ(遜札泰)城などを新たに建造、或いは遼、金の旧城を修築して再建し、各城には基本的にウラナラ氏の者を駐箚させた。[8]ブヤンは、内政的には農耕、漁撈、狩猟、交易などにおける改革を実施する一方で、外事的には、実力で敵わない萬のハダ・グルンに従属して女真諸部の盟主たる地位を擁護した。明朝との交易もハダを通して行われ、その他の部衛事務には干渉しない方針を採った。[8]
ブヤンの子孫 編集
維基百科「布顏 (烏拉國主)」には子孫の考察に就いて特に典拠の明示がない為、詳細不明ながら、ここではひとまづブガンを長子、ブルヒ(布爾喜)を次子として扱い、『八旗滿洲氏族通譜』に従って第五子までは順番に記載する。ボクド、ヒンニヤ(興尼雅)、フダンガ(富党阿)の三人に就いては上記参照。
- 長子ブガン:第二代ウラ国主。[8]
- 孫→「ブガン」参照。
- 次子ブルヒ(burhi, 布爾喜)[9]
- 孫:ブルヒの子 (名未詳)。
- 曾孫ショセ(šose, 碩色):ロサ(羅薩)の実兄 (長子)。[10]
- 曾孫ロサ(losa, 羅薩):鑲紅旗。ブルヒの孫 (父未詳)。ウラ地方に代々定住し、建国初期に帰順した。騎都尉を授与され、ニルを編成して統轄した。錦州征討に従軍したが戦死し、三等軽車都尉を追贈された。[9]
- 曾孫ダイジュ(daiju, 台柱):ロサの三弟 (兄弟の三番目)。[11]
- 玄孫イェブショウ(yebšeo, 葉栢綬):ダイジュの子。元・佐領。[11]
- 曾孫エルクトゥ(erkutu, 額爾庫図):ロサの四弟 (兄弟の四番目)。[11]
- 曾孫シカ(sika, 錫喀):ロサの五弟 (兄弟の五番目)。元・七品官。[12]
- 孫:ブルヒの子 (名未詳)。
- 孫:ブルヒの子 (名未詳)。
- 三子・ブサンタイ(布三泰):
- 孫チャンジュ(cangju, 常住):鑲白旗、元・鑲黄旗 (転属)。[15]ブサンタイ(busantai)の長子。ウラ地方に代々定住し、建国初期に領民を引率れ衆帰順した。ニルを編成し統轄した。[16]
- 曾孫チャムブ(cambu, 禅布):チャンジュの長子。ドロ・イ・エフ (doro i efu, 多羅額駙=皇婿)。元・佐領。[16]
- 曾孫ジャンタイ(jangtai, 章泰):チャンジュの三子。閑散 (一種の予備役) として北京経由で山東征討に向った。献県 (現河北省滄州市) 攻城戦では梯子を使って一番に城壁を登り切り、攻城戦を制して雲騎尉を授与されたが、傷痍が原因で死亡した。後、ヌルハチの勅命により昭忠寺に祭祀された。曾孫のジャランガ(査郎阿, 大学士) の得た栄典により光禄大夫の称号?を追贈された。[16]
- 玄孫ジャルハイ(jarhai, 査爾海):ジャンタイの子。雲騎尉を承襲し、順治年間の3度の恩賞による加増で三等軽車都尉に陞叙された。湖南征討に従軍し、岔路口地方に於いて孫可望[17]の騎歩兵を撃砕した。舟山 (現浙江省舟山市) 征討に向い、阮思 (英毅伯爵) らの兵を海上で撃砕し、勲功により二等軽車都尉に陞叙された。嗣いで、父のジャンタイが揚げた勲功への追頌により一等軽車都尉に陞叙され、佐領を務めた。[16]
- 来孫セステイ(sestei, 色思特):ジャルハイの子。護軍としてオイラト部ガルダン・ハーン征討に従軍し、ウラン・ブトゥン(ulan butung, 烏藍布通)地方で戦死した。後、勅命により昭忠寺に祭祀された。子のジャランガ (大学士) の得た栄典により光禄大夫の称号?を追贈された。[16]
- 昆孫ジャランガ(jalangga, 査郎阿):一等軽車都尉と世襲の佐領職を承襲し、尋いで、参領に昇進した。勅命により吏部郎中を兼務し、吏部侍郎に抜擢され、都察院左都御史に昇進し、鑲黄旗満洲都統事務を署理した。雍正6 (1728) 年、勅命によりチベット(グシ・ハン)を平定し、吏部尚書を授与された。雍正7 (1729) 年、勲功を揚げて凱旋、勅命により川陝総督を署し、西安将軍印務を兼理し、太子少保の称号?を授与された。雍正8 (1730) 年、西路軍需を総理した。雍正10 (1732) 年、「査郎阿、忠誠、國ニ體シ[18]、軍務ヲ辦理スルニ事事宜キニ合ヒ、大将軍ノ任ニ克勝ス」と恩詔を賜り、尋いで勅令により寧遠大将軍を署し、兵を率いてジュンガル部を征討した。雍正13 (1735) 年、「査郎阿、兵ヲ領ヰテ自リ以来、辦スル所ノ軍務、俱ニ妥協ニ屬ス[19]。著補シテ文華殿大學士ヲ授ケ、兵部尚書ヲ兼ヌ」と恩詔を賜った。乾隆4年、太子太保?の称号を授与され、議政大臣を兼務した。[16]
- 来孫セステイ(sestei, 色思特):ジャルハイの子。護軍としてオイラト部ガルダン・ハーン征討に従軍し、ウラン・ブトゥン(ulan butung, 烏藍布通)地方で戦死した。後、勅命により昭忠寺に祭祀された。子のジャランガ (大学士) の得た栄典により光禄大夫の称号?を追贈された。[16]
- 玄孫シャナハイ(šanahai, 沙納海):ブサンタイの曾孫。元・頭等護衛兼佐領。[20]
- 玄孫ラトゥフン(latuhun, 拉図渾):ブサンタイの曾孫。郎中のダングリ(danggūri, 党務理)、サムハ(薩穆哈)らに随い、移駐の命令を伝えに呉三桂の許へ向ったが、到着すると呉三桂が已に謀叛を起しつつあり、ダングリらと共に駆け戻って謀叛の報せを伝えた。ビトヘシより郎中に抜擢され、ニル管轄を兼務した。[20]
- 玄孫ダントゥ(dangtu, 當図):ブサンタイの曾孫。元・防禦。[20]
- 玄孫ジャフタ(jafuta, 査福塔):ブサンタイの曾孫。元・護軍校。[20]
- 玄孫シャマハイ(šamahai, 沙瑪海):ブサンタイの曾孫。職能と指示遵守の姿勢が評価され、雲騎尉を授与された。燕京定鼎(奠都)時に騎都尉を授与、恩賞による加増で騎都尉一雲騎尉に陞叙され、佐領を務めた。[20]
- 玄孫ナマハイ(namahai, 納瑪海)の実兄 (名未詳)。
- 玄孫ナマハイ(namahai, 納瑪海):シャマハイの実弟。騎都尉兼一雲騎尉を承襲し、二度の恩賞による加増で二等軽車都尉に陞叙され、佐領を務めた。[20]
- 玄孫ジャルハイ(jarhai, 査爾海):ジャンタイの子。雲騎尉を承襲し、順治年間の3度の恩賞による加増で三等軽車都尉に陞叙された。湖南征討に従軍し、岔路口地方に於いて孫可望[17]の騎歩兵を撃砕した。舟山 (現浙江省舟山市) 征討に向い、阮思 (英毅伯爵) らの兵を海上で撃砕し、勲功により二等軽車都尉に陞叙された。嗣いで、父のジャンタイが揚げた勲功への追頌により一等軽車都尉に陞叙され、佐領を務めた。[16]
- 孫チャンジュ(cangju, 常住):鑲白旗、元・鑲黄旗 (転属)。[15]ブサンタイ(busantai)の長子。ウラ地方に代々定住し、建国初期に領民を引率れ衆帰順した。ニルを編成し統轄した。[16]
- 四子ブジュン(bujun, 布準)[21]
- 孫カルカマ(karkama, 喀爾喀瑪):ブジュンの長子。正黄旗包衣。[22]ウラ地方に代々定住し、天聡年間に帰順した。[23]
- 孫チェチェン(cecen, 轍臣):カルカマの実弟(兄弟の何番目か不明)。[24]
- 曾孫アミンガ(amingga, 阿明阿):チェチェンの子。元・佐領。[24]
- 曾孫ベルヘトゥ(belhetu, 博爾赫図):チェチェンの子。郎中に任命され、工程を監修し、評議により騎都尉を授与された。[24]
- 曾孫ウヌチュン(unucun, 呉努春)の実兄 (名未詳)。
- アラミ(alami, 阿拉密):ウヌチュンの実兄の子。騎都尉を承襲。元・二等侍衛。[24]
- 曾孫・ウヌチュン(unucun, 呉努春):ベルヘトゥ(博爾赫図)の実弟。騎都尉を承襲。[24]
- 孫マンギャン・タイチ(manggiyan taici, 莽鑑台斉):鑲白旗、元・鑲黄旗(転属)。ブジュンの三子。ウラ地方に代々定住し、建国初期に帰順した。[21]
- 五子ウサンタイ(usantai, 呉三泰)[25]
ボクド 編集
維基百科「布顏 (烏拉國主)」ではボクドをブヤンの六子として挙げているが、『八旗滿洲氏族通譜』にはブガン、ブルヒ(布爾喜)、ブサンタイ(布三泰)、ブジュン(布準)、ウサンタイ(呉三泰)の五名のみ記載がみられる。また、『清史稿』巻223[26]、『東華錄』巻1[27]、『欽定盛京通志』巻31[28]に拠ると、ブヤンの子は長子のブガンと次子ボクドの2名だけとされ、他4名に就いては却って記載が見当たらない。
ヒンニヤ(興尼雅) 編集
『清實錄-滿洲實錄』巻2[29]には満泰の叔父として「興尼雅」なる人物が登場するが (原文:滿泰叔父興尼雅貝勒)、この人物に就いて上に挙げた4点いづれにも記載はない。中国語版[30]ではマンタイの族叔父 (曾祖は固森桑古魯) としているが、『八旗滿洲氏族通譜』[31]にその記載は見当たらない。
フダンガ(富党阿) 編集
『八旗滿洲氏族通譜』にはマンドゥブル(満都布禄)の大伯父として「フダンガ(富党阿}」なる人物が登場する。マンドゥブルはブヤンの次子の孫であり、その大伯父 (祖父の兄) はつまりブヤンの次子の兄、つまりブヤンの長子ということになる。維基百科「布顏 (烏拉國主)」に拠れば長子はブガンであるが、ブガンをブヤンの子であるとする史料はみられても、長子であると断言する史料はみつからない (中国語版に典拠なし) 。ヒンニヤ(興尼雅)と同様に「族大伯父」なのか、ブガンと同一人物なのかまでは不明。
脚註 編集
- ^ 佚名 & 中华书局编 1986, p. 22
- ^ カタカナ表記は『烏拉街探訪』(後藤智子)p.75「3. 烏拉古城」「……ウラの始祖はナチブルで、第8代ブヤンの時に……」に随った。
- ^ 赵, 东升; 宋, 占荣 (1992) (中国語). 乌拉国简史. 中共永吉县委史办公室. p. 16
- ^ 中国語版には「烏拉洪尼勒城」とあるが、『八旗滿洲氏族通譜』『清史稿』『清實錄』に遵い「勒」は消した。
- ^ 八旗滿洲氏族通譜. 未詳. "太蘭卒子布顔繼盡服烏喇諸部築城於烏喇河岸洪尼地方自稱為貝勒"
- ^ 清史稿. 未詳. "布顏收附近諸部,築城洪尼,濱烏喇河,因號烏喇,為貝勒。"
- ^ “諸部世系”. 大清歷朝實錄-滿洲實錄. 1. 未詳 . "太蘭生布顏盡收烏拉諸部率眾於烏拉河洪尼處築城稱王布顏卒其子布干繼之布干卒其子滿泰繼之"
- ^ a b c d e f g 赵, 东升; 宋, 占荣 (1992) (中国語). 乌拉国简史. 中共永吉县委史办公室. pp. 21-22
- ^ a b c d e f g h “羅薩”. 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "鑲紅旗人布顔次子布爾喜之孫也世居烏喇地方國初来歸授騎都尉編佐領使統之從征錦州陣亡優贈爲三等輕車都尉其子瑚錫布襲職任佐領卒其親弟瑪爾泰襲職定鼎燕京時入山海關撃敗流賊馬步兵二十萬衆叙功授爲二等輕車都尉三遇恩詔加至三等男緣事削去本身所得之職其親弟瑪爾岱承襲三等輕車都尉因病告退其子瑪郎藹襲職任佐領卒其孫福蘭泰襲職任佐領卒其子福明額襲職現任佐領……"
- ^ a b c d e f g h i j k 八旗滿洲氏族通譜. 未詳. "……又羅薩親兄碩色之長子秉圖由護軍參領從征皮島陣亡贈騎都尉其子碧爾柱襲職遇恩詔加一雲騎尉緣事削去本身所得之職其子松額承襲騎都尉卒其子成吉德襲職任佐領卒其子成福現襲職碩色之次子碧進泰原任護軍參領兼佐領第三子碧靈圖原任員外郎孫克普素原任護軍校錫特庫原係廕生曾孫納楞泰現任佐領……"
- ^ a b c d e f “羅薩”. 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "……又羅薩第三弟台柱之子葉栢綬原任佐領第四弟額爾庫圖之子沙渾原任員外郎孫偏圖原係廕生福爾哈原任護軍校……"
- ^ “羅薩”. 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "……又羅薩第五弟錫喀原任七品官"
- ^ a b c “滿都布祿”. 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "正藍旗人布顏次子布爾喜之孫也世居烏喇地方國初来歸任城守尉其子馬爾漢從征察哈爾布爾尼奮勇擊賊有功授雲騎尉卒其子噶爾泰襲職……"
- ^ a b c “滿都布祿”. 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "……又滿都布祿之曾孫浩善現任防禦元孫海拉遜現任理事同知福爾敦現任筆帖式……"
- ^ a b c d e f g h i j k l “常住”. 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "……布三泰之元孫雅穆素原任協領阿哈布原任護軍參領兼佐領赫碩色原任佐領赫本額原任三等護衞覺色原任筆帖式四世孫石柱原任佐領文殊保原任親軍校署佐領福錫原任護軍校凌泰原任親軍校査哈理現任二等侍衞兼佐領査蘭泰現任驍騎校由鑲黄旗改隸"
- ^ a b c d e f g h “常住”. 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "常住鑲白旗人布顏第三子布三泰之長子也世居烏喇地方國初率衆来歸編佐領使統之其長子禪布係多羅額駙任佐領第三子章泰由閒散過北京征山東梯攻獻縣首先登城克之授雲騎尉創發身故後命入昭忠寺以其曾孫大學士査郎阿所得榮封誥贈光禄大夫其子査爾海襲職三遇恩詔加至三等輕車都尉從征湖南於岔路口地方擊敗賊孫可望馬歩兵征浙江舟山敗偽英毅伯阮思等兵於海上叙功授爲二等輕車都尉嗣追叙伊父章泰之功授爲一等輕車都尉任佐領其子色思特由護軍從征厄魯特噶爾丹在烏藍布通地方擊賊陣亡後命入昭忠寺以其子大學士査郎阿所得榮封誥贈光祿大夫査郎阿承襲一等輕車都尉兼佐領尋陞叅領命兼吏部郎中擢授吏部侍郎陞都察院左都御史署理鑲黃旗滿洲都統事務雍正六年奉命安藏特授吏部尚書七年建功凱旋命署川陝總督兼理西安将軍印務加太子少保八年總理西路軍需十年奉上諭査郎阿忠誠體國辦理軍務事事合宜克勝大將軍之任欽此尋勅署寧遠大將軍率兵征討準噶爾十三年奉上諭査郎阿自領兵以来所辦軍務俱屬妥協著補授文華殿大學士兼兵部尚書欽此乾隆四年加太子太保兼議政大臣其長子邁拉遜現任員外郎次子査克殫現係文舉人……"
- ^ “孫可望[ソンカボウ”]. ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. ブリタニカ・ジャパン 2023年3月25日閲覧. "[生]万暦28(1600)? [没]順治17(1660)? 中国、明末清初の武将。初め明に仕え、のちに清にくだった。別名に可旺、旺児。諡は恪順。陝西省延長の出身。初め張献忠に従い李定国らとともに献忠の義子となり、平東将軍を号した。張献忠が清と戦って敗死すると残存兵力を率いて雲南に行き、ここを領有して平東王を号し、「興朝通宝」を鋳して自立した。やがて桂王朱由榔 (→永明王朱由榔 ) を奉じ秦王に封じられたが、独立してみずから皇帝たらんとした。可望は李定国と協力し清軍を防いでいたが、まもなく離反し、これと戦って敗れ、順治 14(1657)年に清に降伏し、義王に封じられた。翌年北京に迎えられ、やがて没した。"
- ^ 原文「忠誠國體」。「国体」とは「体念国家」の意味で、自らのことのように国家を大事に念うこと。
- ^ 「A屬B」で「AはBである」の意。参照:『新漢語林』【属】㊁❹「…である」
- ^ a b c d e f g h i “常住”. 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "……布三泰之曾孫沙納海原任頭等護衞兼佐領拉圖渾隨郎中黨務理薩穆哈等往令吳三桂移駐値吳三桂已叛遂同黨務理等馳報逆信由筆帖式超擢郎中兼管佐領當圖原任防禦査福塔原任護軍校沙瑪海以任事有能不違指使授雲騎尉定鼎燕京時授騎都尉遇恩詔加一雲騎尉任佐領卒其親弟納瑪海襲職兩遇恩詔加至二等輕車都尉任佐領卒其親兄之子渾晉襲職從征湖廣在醴陵縣地方擊賊陣亡贈爲一等輕車都尉其子魯爾錦襲職從征西藏有功加一雲騎尉任防守尉卒其親弟之子額爾登額襲職時削去恩詔所加之職現襲三等輕車都尉……"
- ^ a b c d e “莽鑑台齊”. 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "鑲白旗人布顏第四子布準第三子也世居烏喇地方國初來歸其孫蘇達原任護軍校穆丹原任戶部尚書薩爾珀原任驍騎校由鑲黃旗改隸"
- ^ a b c d e f g h i “正黄旗包衣喀爾喀瑪”. 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "布顏第四子布準之長子也其子鍾内原任頭等侍衞孫佛保哈穆思嘉俱原任七品官赫色原任護軍校曾孫伊楞親原任繕房總領常齡現任護軍校元孫二達色現任員外郎兼佐領魏保現係舉人……"
- ^ 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "以上俱世居烏喇地方係天聰時來歸之人"
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “正黄旗包衣喀爾喀瑪”. 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "……又喀爾喀瑪親弟轍臣之子阿明阿原任佐領博爾赫圖由郎中監修工程議敘授騎都尉卒其親弟吳努春襲職卒其親兄之子阿拉密襲職任二等侍衞轍臣之孫阿必圖原任員外郎關保原任頭等侍衞常蘇保原任七品官年色原任員外郎兼佐領騷達色原任驍騎校曾孫錫圖原任二等侍衞薩哈爾圖原任司庫桑格現任暢春苑總領法貴現任筆帖式元孫六格原任郎中兼佐領保成原任主事……"
- ^ a b c d e f g h i “謨爾渾”. 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "正白旗人布顏第五子吳三泰之孫也世居烏喇地方國初來歸任三等侍衞其子五格原任筆帖式孫清保原任都統錫爾格原任郎中錫哈納原任護軍校曾孫阿漢泰現任主事武玉齊阿隆阿俱現任筆帖式"
- ^ 清史稿. 未詳. "布顏子二:布干、博克多。布顏死,布干嗣為部長。布干子二:滿泰、布佔泰。布干死,滿泰嗣為部長。"
- ^ 蔣, 良騏 (乾隆年間). “天命四年” (中国語). 東華錄. 1. 未詳 . "布顏……,生子二:長布干、次博克多。布顏卒,子布干立,卒,子滿太立,至滿太弟布占泰,癸醜年滅。"
- ^ “太祖髙皇帝癸丑年征烏拉部撫降之” (中国語). 欽定盛京通志. 31. 未詳 . "布延……生二子長布罕次博克多布延卒子布罕繼之布罕卒子滿泰繼之"
- ^ “先陣中所擒布占泰恩養四載至是七月”. 大清歷朝實錄-滿洲實錄. 2. 未詳 . "先陣中所擒布占泰恩養四載至是七月太祖欲放歸令圖爾坤煌占博爾坤斐揚古二人護送未至其國時布占泰兄滿泰父子二人往所屬蘇斡延錫蘭處修邊鑿壕父子淫其村內二婦其夫夜入将滿泰父子殺之及布占泰至日滿泰叔父興尼雅貝勒謀殺布占泰欲奪其位其護送二大臣保守門戶甚嚴不能加害於是興尼雅投葉赫而去布占泰遂繼兄位為烏拉國主護送二人辭回十二月布占泰感太祖二次再生恩猶父子将妹滹奈送太祖弟舒爾哈齊貝勒為妻即日設宴成配"
- ^ 乌拉国简史. 中共永吉县委史办公室. pp. 22,140
- ^ “正黄旗包衣喀爾喀瑪”. 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "……又喀爾喀瑪伯曾祖台費喀之元孫索爾和原任郎中南泰原任委署參領巴仆原任鳴贊四世孫吳什巴原任司庫六世孫寧古齊現任筆帖式台費喀親伯固森桑古魯之四世孫明愛原任司胙官五世孫額特布原任備箭首領兼藍翎侍衞六世孫三格納延保俱現任驍騎校七世孫文明慶徳俱現任筆帖式……"
- ^ a b c d e f g “滿都布祿”. 八旗滿洲氏族通譜. 未詳 . "……又滿都布祿伯祖富黨阿之元孫胡什布由委署章京從征江西於南康縣擊敗賊偽提督顔子明等兵三萬餘衆續征雲南擊敗賊偽將何繼祖等兵於黃草壩叙功授雲騎尉卒其子薩穆泰襲職任步軍校富黨阿之四世孫希佛原任驍騎校穆奇納現任防禦五世孫黑達色現任中書雅爾納現任前鋒校"