加藤 祐司(かとう ゆうじ、1957年7月30日 - )は、日本の脚本家

かとう ゆうじ
加藤 祐司
プロフィール
誕生日 (1957-07-30) 1957年7月30日(66歳)
出身地 日本の旗 日本宮城県仙台市青葉区
血液型 B
出身校 宮城県仙台第二高等学校東京芸術大学大学院芸術学部芸術学科修士課程中退
活動期間 1985年 -
主な作品
テレビドラマお坊っチャマにはわかるまい!』『家庭の問題』『木村家の人びと
映画台風クラブ
受賞
毎日映画コンクール 第40回(1985年)脚本賞『台風クラブ
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来歴 編集

宮城県仙台市出身。

  • 1965年、1964年の東京オリンピックの公式記録映画『東京オリンピック (映画)』をきっかけに映画に興味を抱く。
  • 1973年、宮城県仙台第二高等学校に進学。
  • 1977年、2年間弱フランスに遊学。主にヴァンダンジュ(vendange)等のアルバイトに勤しむ。
  • 1980年、東京芸術大学美術学部芸術学科に進学。通学と並行して映画脚本を執筆。
  • 1983年、映画製作会社ディレクターズ・カンパニーのシナリオ公募コンクールに映画脚本『台風クラブ』を応募し、準入選[1]
  • 1984年、東京芸術大学美術学部芸術学科を卒業。同大学大学院美術学部修士課程に進学。同年、『台風クラブ』の映画化が決まり相米慎二監督と会う。映画の撮影開始。現場に同行し、撮影の手伝いや相米監督の求めに応じた台詞の加筆などを行う。
  • 1985年、脚本家デビュー。映画『台風クラブ』で第40回毎日映画コンクールスタッフ部門脚本賞を受賞[2]。映画『台風クラブ』は同コンクールにおいて作品部門日本映画優秀賞[2]を、第1回東京国際映画祭においてヤングシネマ部門大賞を受賞[3]。同年、映画『台風クラブ』が一般公開される。以後、映画やテレビドラマの脚本を執筆。
  • 1986年、東京芸術大学大学院美術学部修士課程を中退。
  • 1987年、テレビディレクターデビュー。以後、シナリオ執筆の傍らドキュメンタリー番組等の作品を演出。

人物 編集

中学卒業までに山形県米沢市、秋田県秋田市、福島県会津若松市、宮城県仙台市への引っ越しを経験しており、頻繁な転校が人格形成に影響した。

父親の影響で幼少期から映画鑑賞の機会が多かった。各映画に感銘を受け、将来の夢を決めることも多々あった。1958年公開のオーストリアの映画『野ばら』に感銘を受け、ソプラノ歌手を目指したこともあった。

映画『台風クラブ』の撮影中に相米監督が差し入れしたトマトと胡瓜が、人生で味わった最高の野菜であったと振り返る。

映画監督である田中じゅうこうとは20年以上にわたり親交があり、同氏の映画公開に伴うトークイベントに参加することがある[4]

作品リスト 編集

脚本 編集

企画・監督 編集

  • 1988年、情報・ドキュメンタリー番組 日本テレビ『追跡 (情報番組)』「開けて仰天蔵の中1」「開けて仰天蔵の中2」
  • 1997年、NHK/BSⅡ紀行番組『素晴らしき地球の旅』「猿まわしのふるさと〜中国〜」
  • 2001年、情報・ドキュメンタリー番組 Sky PerfecTV! ch.750『時を超えた傑作』

脚注 編集

  1. ^ 台風クラブ”. キネマ旬報WEB. キネマ旬報社. 2024年5月17日閲覧。
  2. ^ a b 毎日映画コンクール 第40回(1985年)”. 毎日新聞. 毎日新聞社. 2024年5月17日閲覧。
  3. ^ 日本映画クラシックス.台風クラブ”. 東京国際映画祭2022. 公益財団法人ユニジャパン. 2024年5月17日閲覧。
  4. ^ 『ロボット修理人のAi(愛)』イベント決定!”. K's cinema. K's cinema. 2024年5月17日閲覧。