十字街 (函館市)
函館市の地区
概要 編集
明治期までの函館経済の中心は青函航路の東濱桟橋(旧桟橋)付近だったが、街の拡大に伴い大正期に移動しできた繁華街である[2]。
当時の十字街付近は、映画館4軒や旧丸井今井函館店などを擁した函館を代表する中心繁華街であり、当時は全国有数の繁華街でもあった。しかし、1934年(昭和9年)の函館大火により十字街付近も大きな被害を受け、徐々に衰退が始まっていった。[要出典]
太平洋戦争後には新しいアーケードが設置されたが、その一方で1960年(昭和35年)には十字街商店街について「このままでは場末街になる」という診断書が出され、衰勢が明らかとなった[3]。1969年(昭和44年)には、丸井今井が本町地区に移転した[3]。移転後の旧丸井今井の建物は函館市の分庁舎(函館市役所末広分庁舎、現・函館市地域交流まちづくりセンター)となったが、これは十字街を含む西部地区の斜陽化を防ぐ目的があった[3]。
年表 編集
主要施設 編集
- 公共施設
- 函館市地域交流まちづくりセンター
- 函館市立博物館郷土資料館 - 旧金森洋物店
- 交通
- 商業・娯楽施設
かつてあった主要施設 編集
その他 編集
市街地となる以前については、戊辰戦争中の1869年6月20日(明治2年5月11日)、旧幕府軍の幹部土方歳三が箱館にある新政府軍の包囲で孤立していた弁天台場を救出しようと一隊を率いて五稜郭より進撃を試みたが、土方自身が腹部を撃たれて落馬、そのまま亡くなった最期の地とする説がある(十字街異国橋説)ものの、関連小説の影響の可能性もあり、史実かどうかははっきりしていない[5][6][7]。
脚注 編集
- ^ 函館市の町名 - 函館市。「十字街」という町名は存在しない。
- ^ 鈴木文彦「路線価でひもとく街の歴史 第36回北海道函館市」『ファイナンス』2023年2月号、財務省、[要ページ番号]
- ^ a b c 商店街の消長と小売業の変貌 - 『新編函館市史』(函館市ウェブサイトに公開)
- ^ 函館市交通局労働組合『函交労50年の歩み』函館市交通局労働組合、1995年、p33、p.85
- ^ 函館市史編さん室(編)『函館市史 通説編2』函館市、1990年、pp.254 - 257
- ^ 木村裕俊『ある巡査の書簡から 土方歳三最期の地を探して』函館蔦屋書店、2020年、pp.16-17
- ^ 木村幸彦『史伝土方歳三』学習研究社〈学研M文庫〉、2001年、p.336
関連項目 編集
- 函館市の繁華街
- 函館西部地区の町並み