日米繊維交渉
日米繊維交渉(にちべいせんいこうしょう、英: Japan-US textile negotiations)とは、1955年から1972年にかけて日本とアメリカ合衆国との間で行われた繊維製品の貿易に関する交渉の総称。狭義では、それらの内1970年6月22日から24日にワシントンD.C.で行われた会談を指す場合もある。
経緯
日米綿製品協定
1955年、米国が繊維製品の関税引き下げを行ったことで、「ワン・ダラー・ブラウス(One dollar blouse)」に代表される日本製の安価な綿製品の輸入が激増。これに対し米国繊維業界で、日本からの綿製品輸入制限運動が高まりを見せる[1]。 米国政府は国内での機運の高まりに応じ、日本に対して綿製品貿易に関する取り決めを提案。1957年に「日米綿製品協定」が締結され、日本は対米綿製品の輸出を5年間自主規制することとなる。
ニクソン政権
1968年の米国大統領選挙戦中の8月11日、リチャード・ニクソン候補が「毛・化学繊維にも国際的取り決めを導入する」とする繊維規制を公約し[2]選挙に勝利、大統領に就任する。翌1969年5月、モーリス・ヒューバート・スタンズ(en)商務長官が訪日し、日本による繊維製品輸出の自主規制を要請。これを愛知揆一外務大臣が拒否すると、ウィルバー・ミルズ(en)下院歳入委員長が「日本が自主規制に応じなければ、議会は繊維の輸入割当を法制化する」との声明を発表する。
ワシントン会談
1970年6月22日から24日、ワシントンD.C.で宮澤喜一通商産業大臣とスタンズ商務長官が会談。しかし、スタンズが前年の佐藤・ニクソン会談で合意された「沖縄返還密約」を基に交渉を行ったのに対して、宮沢は密約の存在を否定する佐藤の主張に沿って交渉を行った。その結果、交渉は事実上決裂する[2]。
日本繊維産業連盟の自主規制
1971年2月22日、ミルズ委員長は「政府間で合意できないならば、業界単体での一方的自主規制に反対しない」と提案し、自主規制の具体的骨子にまで言及。この提案を基に、日本繊維産業連盟は3月8日、自主規制案を発表し、日本政府はこの自主規制をもって政府間交渉を打ち切る。しかし、ニクソン大統領は同11日に日本側の宣言に不満を表明(「ジャップの裏切り」と口走ったとも言われる[3])。自主規制案の内容は受け入れがたく、更に政府間交渉は日本が打ち切ったため行えないので、議会での通商法案の成立を強く支持するとの声明を出した[2]。
決着
1971年7月に成立した第3次佐藤改造内閣で通産大臣となった田中角栄は、就任直後にニクソンの特使として来日したデヴィッド・ケネディとさっそく会談。9月の日米貿易経済合同委員会でも日本側の事情を説明したが受け入れられず、田中は米側の要求をのむ代わりに繊維業界の損失を補填するという方針に転換。10月15日に米側原案に近い形での「日米繊維問題の政府間協定の了解覚書」を仮調印が行われ(直後に施行)、日米繊維問題は一応の決着を見た。繊維業界へは751億円の救済融資が実施された。同年の第67臨時国会でも1278億円の追加救済融資が補正予算として計上された。
米繊維業界の経済的被害
米繊維業界が日本製繊維製品の輸入制限を主張する根拠は、「安価な日本製品の増加により、国内産業が衰退し雇用が減少しているため」というものである。しかし、1969年10月4日のリンドン・ジョンソン大統領の命により関税委員会が行った米国繊維産業の実態調査の報告書(1968年1月15日提出)では、
- 米国繊維産業はかつてない急成長を果たした
- 国内他製造業に比べても繊維産業の企業利益は大きい
- 安価な輸入品は低所得者の必需品購入を助けている
- 輸入により、特定の製造業者の利益や雇用に影響が生じたという資料は得られなかった
とされている。このことから、ジョンソンは自由貿易の堅持を主張したが、繊維規制を公約したニクソン大統領の就任後、繊維輸入規制運動が活発化した[1]。
これには、「米国は自由貿易を推進している。これに逆行する規制を主張するならば、米国産業への被害をきちんと立証すべきだ」という批判が行われた[4]。
政治的背景
沖縄問題
日米繊維交渉が難航した背景には、経済的利害関係のほかに沖縄返還という政治的な問題があったとされる[5]。米国が沖縄を返還する代わりに、日本政府が繊維製品の規制に同意することが求められたのである。しかし、このニクソン戦略は、日本側の事情で極秘扱いとされ、表立った交渉の場ではあくまでも「経済的交渉」との体裁が整えられ、米側の意図は実際に交渉を行う事務レベルにも伝えられなかった[5]。このため、交渉を行う日米双方で思惑が食い違い、交渉が難航したという。
以上のような経緯から、繊維交渉と沖縄返還問題の関わりは、日本国内で「糸を売って縄を買う」と揶揄された[1]。
尖閣諸島問題
また、当時の尖閣諸島返還問題に関しても繊維交渉が関わっていたとされる。
尖閣諸島は1972年の沖縄返還の際に日本へ返還された。しかし、尖閣諸島の日本への返還に対しては台湾政府からの反発も大きく、米国政府内でも否定的な意見が多かったとされる。その意見の中には、「繊維交渉で日本に譲歩を促す際の交渉材料にするためにも、直ちに日本に返還すべきでない」というものもあったことが米国政府の外交文書から明らかになっている[6]。
関連項目
脚注
- ^ a b c 生駒和夫「長い険しい道 -日米繊維交渉」通産ジャーナル 14巻2号 p22-27 1981年05月
- ^ a b c 「日米繊維戦争の外交と内政」経済評論 20巻5号 p174-179 1971年05月
- ^ マイケル・シャラー「「日米関係」とは何だったのか――占領期から冷戦終結後まで」2004年
- ^ 佐藤洋輔「日米繊維交渉をめぐる繊維産業と繊維労働運動の動向」旬刊賃金と社会保障 550巻 p22-25 1970年12月05日
- ^ a b 大慈弥嘉久,白石孝,三橋規宏「日米繊維交渉と70年代ビジョン」通産ジャーナル 26巻12号 p54-58 1993年12月
- ^ “米文書に尖閣諸島返還の経緯”. NHK. (2011年9月8日) 2011年9月8日閲覧。